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2024年12月15日説教全文「気前の良い救い主」

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〇聖書個所 マタイによる福音書 20章1~16節

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』。主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。

〇説教「 気前の良い救い主 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。本日は、クリスマスを待ち望む待降節(アドヴェント)の第三礼拝です。このアドヴェントの季節、私たちは救い主誕生の意味を改めて黙想し、神の愛を改めて受け取り直す時期として守ります。本日の礼拝の始まり灯した三本目のアドベント・キャンドルには「喜び」という意味があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語ったパウロの言葉のように、イエス・キリストは私たちに喜びをもたらすためにやってきてくださいました。本当の喜びとは予想される時に感じるものではありません。まさにAmazing Grace。驚きのあまり、思わずにんまり笑顔になってしまう神の恵み、神の愛であります。それはどのようなものか、今日の「ぶどう園の労働者の譬え」の箇所からお話ししたいと思います。

イエス・キリストは神の国の譬えとしてこのお話をされました。簡単に振り返ってみましょう。「あるぶどう園の主人が、夜明けごろ労働者を雇うために街中に出かけていった。恐らくぶどうの収穫の時期で、働き手がたくさん必要になったのでしょう。彼は、街中に出かけて行き、労働者と一日分の労働の対価である「1デナリオン」で契約を結んで働かせました。「1デナリオン」は、現在でいえばおよそ1万円くらいと言えるでしょう。しかし、まだまだ人手が足りなかったのでしょうか、ぶどう園の主人は朝9時頃、昼頃、なんと午後や夕方にも街中に出かけて行ってたびたび労働者を求めます。

夜になり一日の働きが終わったとき、主人は、あとから働いた人々から順に約束した賃金を差し出しました。残業なし、賃金は即日手渡しということで、ホワイトな職場環境であったことと思います。夕方から働きをした人に1デナリオンが手渡されている人を見て、朝早くから働いた人たちはどう思ったでしょうか?彼らはこう思いました。「おお、今日のぶどう園の主人は、気前がいいな。あとから来て1時間しか働かなかった人が1デナリオンもらっている。そうであれば、私たちは朝から暑い時間も働いていたのだから、2デナリオン、あるいはもっと多くもらえるに違いない」。彼らの胸は弾んだことと思います。そしていよいよ彼らが受け取る順番が来ました。ところが、彼らに差し出されたのは同じ1デナリオンでした。彼らの期待は一瞬で裏切られ、口々に不平を言い始めます。人間らしいですよね。「ご主人さま、おかしいじゃないですか。何故、夕方頃からきて1時間しか働かなかった人が、朝から晩まで働いた私たちと同額なんですか!私たちは汗水たらして働いて、彼らの何倍もぶどうを収穫したのですよ!こんなのあんまりじゃないですか!」ところが主人は言います。「友よ。私はあなたに不当なことはしていない。私が自分のものを自分のしたいようにする気前良さをねたむのか」。

さてみなさんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか?この話を聴いて、最初に神の気前良さを感じる人はなかなかいないのではないかと思います。私はむしろ、この主人はなんと不公平なのだろうと感じました。だって、朝早く、恐らく夜明けごろ暗いうちから頑張って働いた人と、夕方近くになってから働き始めた人の賃金が同じっていうのは、あり得ないと思うからです。
もちろん、確かに労働を始める前に賃金について合意が取れているわけですから、労働契約上不当なことはなにもありません。しかし、それでもやはり「ないわー」と思います。法的に問題がなかったとしても、労働者の気持ちを損ねるには十分です。不当ではないけれども、不適切だとは言えるのではないでしょうか。そもそも主人の言葉にカチンと来ます。「友よ。私はあなたに不当なことはしていない。私が自分のものを自分のしたいようにする気前良さをねたむのか」。確かにその通りかもしれませんが納得できるものではありません。だったらうちらだって楽して稼ぎたかったわというのが本音でしょう。頭での理解と心での納得は別問題です。
ですから私は、彼らの言い分はもっともだと思います。なぜなら、彼らは、自分の労働に報いて欲しいと言っているのだからです。別に後から来た人々に「お前たちずるい」と文句を言っているのではありません。また、彼らの賃金が低いと不平を言っているのではありません。一日一デナリオンで十分なのです。それで彼らは納得していたのです。でも、後から来た人が自分と同じ報酬をもらっていたら、自分たちの仕事が何かないがしろにされ、低く看做されたかのような悲しい気持ちになってしまうのは理解できます。別に倍欲しいとは言わない。でも自分の頑張りを見て、それに対して正当な評価をしてほしいという訴えなのでしょう。私は、ここで不平を言った労働者の感情は理解できます。みなさんは、どう思われるでしょうか?果たして、このぶどう園の主人は何故、波風を立てるようなことをしたのでしょうか。
実は、さきほどの主人の言葉に着目してわかることは、彼には朝早くから働いた労働者を差別するような気持ちは全くなかったということです。むしろ自分は気前がいいので、後から来て働いた人たちも朝早くから働いた人々と同様に接してあげたかったと言うことでしょう。
ではなぜ、主人は彼らに朝早くから働いた人と同じ賃金を差し出したのでしょうか。後から来た人がバリバリ働いて、朝早く来た人と同じ成果を上げたということでしょうか。そんなわけないと思います。そんな人がいれば朝早くから雇っていたことでしょう。また、後から来た人にだけ時間外労働をさせたということでもありません。それでは、主人は何故、彼らに同一賃金を支払ったのでしょうか。
わたしはその答えについて、この主人が彼らの存在を顧みたからだとしか考えられません。つまり、夕方遅くまで雇われずに、それでも仕事を探して歩いていた人たちの命、存在そのものを主人は慈しんだということなのです。主人に対して不平を言った人々は、朝早くから働いた人々です。かたや夕方雇われた人々は一言も発していません。いやもしかして、彼らは声を発することもできないような状態にいたのではないでしょうか。こういう時、私はふと自分を朝早くから来た労働者に置き換えていたことに気付きます。反対の立場の方したら、どうなのでしょうか。彼らはどういう人々であったのか考えてみたいのです。彼らは、朝から街中で仕事を求めていなかったのでしょうか。朝から並べない理由があったのでしょうか?それとも、朝早くから並んでいたのに、誰からも雇われないような理由があったのでしょうか。私は、彼らは他の人と同様、朝から仕事を求めていたのに、誰にも相手にされず、かといって自分で生きて行く糧も得られないような人々であったのではないかと思うのです。

どんなことが考えられるでしょうか。例えば、病気や怪我などの理由、経験や年齢などで、当時求められる人材には当てはまらなかったということでしょうか。自分はまだできるし、働きたいと思っているのに、社会から必要とされないという絶望的な孤独感。心に生まれる悲しみは察するに余りあります。人と比べて自分を売り出せるような能力も資格も持たず、もう誰にも相手されない状況。さらには、普通の人々に引け目を持っている人々であったかもしれません。もはや何をやっても普通の人にもかなわない。彼らは、声を上げることもできず、自分で立ちあがることもできず、主人が声をかけてくれなければ、もはや声をあげることさえできない状況に置かれていたのではないかと思うのです。

余談ですが、実は私は1980年生まれ、いわゆる就職氷河期世代に当たります。1970-1982年の間の生まれはロストジェネレーション世代とも呼ばれ、バブル崩壊等の社会的な原因によって極端に正規雇用が減った世代です。就職氷河期の求人倍率は、1990年度の2.77%から2000年には0.99%まで下がり、求人倍率は約3分の1まで減少。大卒の63%しか就職できず、かつその内の15%は自分たちの思いとは裏腹に非正規雇用やフリーターとして社会に出るより他なかった人々も多くいます。その世代は本来であれば現在、社会の年代層の中で中心となり、結婚して子育てをして、経済をまわす世代になるはずなのですが、そこが失われてしまったことにより、経済的な問題により、現在の婚姻率の低下、少子化に影響が及んでいます。自分の希望通りにならなかったのは、社会的な影響が大きいのに、何故か自己責任「あんたの努力が足りなかったからだ」で片づけられ、誰も目を留めてくれない。まさにロスト・失われた世代と言えます。何によって我々の世代は失われたのでしょうか。原因はわかりますが、納得はできません。現在、労働人口の減少に伴い、働き手が足りていないと巷では叫ばれますが、しかしかたやどこに行っても必要とされず、明日どのように生きて行けばよいかわからないという人々がいます。そのような中で、後から救い出された人は声をあげることもできません。
しかし、このぶどう園の主人は、朝早くから働けず、第一線で働くこともできないような人々にさえ、たとえその労働が全く成果に繋がらない働きであったとしても、そのいのちを慈しみ、そのいのちに報いられるのです。主人が差し出した1デナリオン。これは、一日分の労働の対価と言いましたが、言い換えれば一人の人のいのちを守るのに必要な肉の糧であり、霊の糧だとも言えるでしょう。彼のいのちに報い、必要な糧を与えた。それが彼の働きを伴うか伴わないかを問わず、与える無条件の愛。この主人が神の姿であり、私たちへの愛なのではないでしょうか。
主人は何故、後から来た人から先に賃金を渡したのでしょうか。その理由は想像がつきます。それは恐らく、彼らの方が賃金を早急に必要としていたからであります。彼らは朝早くからひろばにいたにも関わらず夕方になるまで誰にも声をかけられないまま過ごしていました。それは仕事を求めていたのに与えられなかったということです。そしてそれは恐らく彼らにとってその日一日だけのことではなかったのだろうと思います。ですから、彼らは持ち合わせもあまりなかった。恐らくお腹もペコペコ、力も失っていた。一刻も早く賃金をあげてお腹いっぱい食べさせてあげたいと思ったのでしょう。それに対して朝早くから働いていた人々と言うのは、朝から働くことができた健康な体を持つ人であり、その日だけではなく、仕事をしっかりすることができていた、お腹はすいていると思うけれど、それは一時的なこと。日銭に困ることはなかったわけです。だから、主人は、後から来た人に先に賃金を渡したのだと思うのです。

この恵みはまさに労働者にとってはアメージンググレイス。驚くばかりの恵みであったはずです。あり得ない恵み。考えられない恵み。誰も自分の事なんて気にしていないと思っていた。しかし、ここに自分のことを理解し、その気持ちに寄り添ってくれる方がいる。これがイエス・キリストであり、、神が私たちに示している愛だと聖書は語るのです。今日の聖書個所はイエス・キリストによる譬え話ですが、「天の国はこのようなところである」という書き出しで語られています。天の国とはつまり、神は、私たちのいのちがどんな状態であったとしても、つまり社会的な生産価値のあるような命でなくても、たとえ他の人々と比べたら価値がないと思われても仕方ないような命であったとしても、その命を慈しみ、愛してくださるお方であり、天の国はそのような愛に包まれているところであるのです。

もちろん、この世はそのようなところを、認めないかもしれません。そんな経済活動が許されたら、「朝早くから働けた者たち」が世の中心となっている安定した社会基盤が根底から崩されてしまうからです。そして事実、イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者、当時の主だったユダヤの指導者層に排除され、十字架につけられて殺されてしまったのです。しかし、イエス・キリストは殺されることさえ恐れずに、人を愛しつづけられました。このイエスさまの姿は「雇われなかった者たち、貧しき者、躓いた者たち」の希望の光となって、現在に及ぶ2000年以上も語り伝えられているのです。

私たちはいのちの価値に優劣をつけてしまうことがあります。残念ですが、目に見えるものでしか判断できない私たち人間の愛には限界があります。しかし神は、最も価値も低く他人に誇ることもできないような自分自身に対して「あなたは高価で尊い。私はあなたを愛してくださる」と言ってくださるのです。これは神の無条件の愛です。そして事実、私たちを愛するために、イエス・キリストは、その命を懸けてくださいました。そして、神はそんなイエス・キリストを死で終わらせることなく、よみがえらせてくださったのです。ここに私たちの信仰の根幹と神への希望があります。

この神の愛がこの世に生まれた日。これがクリスマスです。ですから、クリスマスの本質は、「わたしたちのいのちを神が顧みてくださることのしるし」だと言えるでしょう。神の目にあって、すべてのいのちは尊い。これが、神がその独り子を私たちに与えられることで、私たちに教えようとしたことなのです。神の気前の良さ、それは私たちをあるがままで受け入れてくれる神の愛です。お祈りしましょう。

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