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2024年12月24日説教全文「神よ、今こそ救いたまえ」

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〇宣教「 神よ、今こそ救いたまえ 」

みなさん、クリスマスおめでとうございます。本日は12月24日、クリスマス・イブです。クリスマスは神の子と呼ばれたイエス・キリストの御降誕を記念する日ですが、何故かこの前日のイブこそが、クリスマスの本番のように受け取られています。実はそれには理由があります。実は、イエス・キリストがお生まれになったユダヤの一日の捉え方は、日没から新しい日が始まると考えられているからです。ですので、24日の日没から25日の日没にかけてが「クリスマス」ということになります。聖書は言います。夕べがあり朝となった。暗闇に光、暗く長い夜に希望の光が差し込み、やがて朝日が昇り、夜明けがくるというのがユダヤの一日の考え方なのです。このクリスマス礼拝の意味も同様です。闇の中で救いを待ち望んでいた人々に、ついに神の約束が果たされる日が来た。暗闇は終わり、待ちに待った救いが訪れるという希望の日です。より具体的に言うならば、暗くつらい日々に生きる人々のところに救い主がやって来る。私たちの現実がどんなに闇に覆われ暗くでも、必ず希望がある、朝日は昇ることを示すもの。これが主イエス・キリストの誕生の出来事です。ですから今日わたしたちは私たちの出来事としてメリークリスマス、クリスマスおめでとうとご挨拶をしたいと思うのです。

私たちは礼拝の始まりに当たり、アドヴェントクランツに火を灯しました。これまでの待降節アドヴェントの4週間、毎週一本ずつ灯して参りました。第一週には「希望」、第二週には「平和」、第三週には「喜び」、第四週には「愛」を祈り、アドヴェント・キャンドルの点灯を守って参りました。私たちはイエス・キリストの誕生に「希望、平和、喜び、愛」を祈って参りたいのです。何故ならばイエス・キリストの歩み、またその言葉にはそのような意味を感じることができるからです。イエス・キリストは、「インマヌエル」と呼ばれますが、インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」と言う意味です。このことを示すために、イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。これは、神が世界の全ての人々を愛しているからことから始まったのです。

とはいえ、考えてみたいのです。、果たして私たちは本当にこの神の救いというものを感じているのでしょうか。私たちの現実は、神さま愛をお与え下さり感謝です、ハッピーです、と言える状況にあるでしょうか。いくら神が私たちを愛してくださっていると言っても、いくら神が救いを与えてくださると言っても、全然それを感じられない状況というものがあります。何故神がこの世界を愛されているのであれば、世の中で人々が愛を実感できるようになっていないのかと思います。むしろ今年一年の私たちの歩みを考えてみたら、もう生きて行くのだけで精いっぱい。人を愛する余裕なんてない。

そもそもキリスト教会が神の愛を伝えているのだとしたら、何故キリスト教を国教としている国同士で戦争が起きているのかと思います。そしてまた、何故聖書の舞台であるイスラエルとパレスチナで、今も2000年前と同じような戦争が起きているのでしょうか。イエス・キリストの教えは果たして国同士の争いを留めることができないのでしょうか。無力なのでしょうか。結局罪には勝てないのでしょうか。そう思うと、私たちはとても苦しいですし、この神の愛を伝えることにいのちをかけている者にとって、非常に落胆せざるを得ません。本当に罪深い人間、救いようのない戦争という出来事が起きています。しかし、こんな時だからこそ、神の愛、神の救いがなんなのかを考えてみたいのです。ですからわたしはこのクリスマスのテーマを「神よ、今こそ救いたまえ」とさせていただきました。
神の救いとは、どういうものか。私たちは、よく救いと言うと、正しい者だけが救われるとか、神を信じる者だけが救われると思いがちです。キリスト教の中にも、「だから、悔い改めをして罪から離れ、正しく生きなさい」と進めている人々もいます。また、キリスト教系を騙るいくつかのカルト、新興宗教では、世の終わりの裁きから救われるためとか天国に入るための信仰生活を勧めます。しかしそれは、人々を裁きの恐怖で縛るための装置でしかありません。
実は聖書にはそんなことは全く書いていないのです。むしろ、この罪深い世に神の子が来てくださった。ここに愛があると言うのです。この事実が救いなのです。より詳しく言うならば、神が御子を送られた世界とは、神の言葉を守ることもできず、罪を犯すし互いに争うことしかできない、まさに救われる要素のない私たちの社会です。しかしそこに住む私たちに神は寄り添いを与えてくれる。愛を示してくれる。そのような無条件の愛こそが私たちの救いとなるのです。イエスはメシアとしての歩みを始めた後、こう言います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。使徒パウロもまたこう言っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きが無くても、その信仰が義と認められます」。(ローマ4:5)つまり、神は不信心な者、罪びとさえ義とされる方である。このことを信じる人は、何の宗教的な善行を行うことも、戒律を守ることも必要なく、その信仰が義とされる、それが無条件の愛である。これがイエス・キリストにおいて私たちに示されたが私たちのためにこの世に来てくださったと信じることなのです。

例えば、今日の聖書の箇所で登場する羊飼いは、正しい人たちであったという情報はどこにも記してありません。あるいは罪を悔い改めた者たちだという情報もありません。むしろ彼らの情報はほとんど、まるで何者であるかはまったく関係ないとでもいうばかりに、何も記録されていないのです。しかし彼らが羊飼いであったという情報は、彼らが恐らく神への救いによりすがるより他にない者たちであったと言うことだけがわかります。そしてその羊飼いたちに神の目が注がれ、天の使いが送られたということが、羊飼いたちにとっての救いであったのです。これはまさにアメージンググレイス、驚くばかりの恵み、あり得ない恵みであったのです。

実は羊飼いたちと言うのは、当時の社会の中で、最も小さく貧しく、そして立場の弱い人々でした。羊飼いというと私たちは青草の生い茂る野原を想像すると思いますが、それは日本のイメージです。乾燥地帯イスラエルは基本的に荒れ野であり、荒涼としています。獣に襲われることもしばしばだったと思います。そんな中、羊飼いは羊と共にわずかな緑と水は追い求めて、家族や家から離れ、まさに旅をし続ける存在でありました。

イエスがお生まれになった頃、ローマの国では人口調査の命令があり、人々は生まれ故郷に帰り登録することが必要だったそうです。町中がせわしなく動いている中で、しかし、羊飼いは野原で野宿していました。彼らは人口登録をする必要がなかったのでしょうか。実は、彼らは世の流れから完全に取り残されているような状況にいたのです。羊を守ると言う当時の社会を動かす大切な働きで会ったのに、だれからも無視されているような存在。そのような人々は、本来、一番助けを求めているはずです。しかし彼らには誰の気にも止められない方々のようです。
彼らの心を考えてみました。他の人々が忙しく移動しているときに自分は取り残されることに特有の置いてけぼり感、疎外感、孤独を感じます。或いは自分の置かれている状況の不安定さ、行先の不透明さ、なんでこうなってしまったのだろうか、これからいったいどうなってしまうのだろうかという悲壮感と焦燥感。しかし自分にはどうすることもできないという無力感。彼らは恐らく夜通し羊の群れの番をしていたと言うことですが、恐らく薪の火をみつめ、ため息をつき、先行きの見通せない暗闇に押しつぶされそうになる、そんなことを思わずにはいられなかったのではないだろうかと想像するのです。

しかし、そんな彼らに向かって天使は近づいて行くのです。天使は語ります。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

天使はギリシャ語ではアンゲロス、良き知らせを告げる神の使者です。その天使たちが、羊飼い、つまり数にも数えられず、闇夜に彷徨う先行きの見通せない社会に生きる人々に言葉を届けるのです。神の御子があなたたちのために与えられた。その子は家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに眠っている。

この知らせに羊飼いたちは心底驚いたことでしょう。それは救い主が羊飼いの生活の現場、現実のただ中に生まれるということを意味していたからです。町の人からは人の数に数えられず、見えなくされていた羊飼いたちが、神の目にはしっかりとみられていたという証拠でもあったからです。

わたしは、この言葉が福音宣教にとって決定的に大切な内容だと思うのです。何故ならば、神の目は確かに苦しみのただ中にいる私たちに向けられている、神はわたしたちを愛してくださっているのだ、私たちは決して見捨てられた存在ではない、だから神の子が私たちの現実の中に与えられたのだというメッセージなのです。

彼らの心にこの言葉はどのように響いたでしょうか。最初は恐怖と驚きでしかなかったことでしょう。しかし、次第に自分自身の存在が、これまで誰も顧みてくれなかったのに、神に認められた嬉しさ。そしてそんな自分たちのためにまさに救い主が与えられたという喜びが心の奥深くからフツフツと湧き上がる感動が出てくるような情景が想像されます。天使は「大きな喜びを告げる」と言いますがこれは最上級の表現で「この上ない喜び」であります。今日の聖書箇所の後に、羊飼いが救い主を探しにベツレヘムに行くという物語がありますが、それもまた彼らがその言葉を確かめに行った、いや、行かないではいられなかったという待ち望む気持ちも伝わってきます。言い換えるなら神の言葉はそれを確認する前から私たちに力を与えるものなのです。

もし仮に、救い主が誕生したとしても、自分と異なる場所、自分と異なる世界に生まれた救い主は自分の救い主にはなり得ません。そんな救い主はお呼びでないという感じです。もちろん彼らは自分たちの救い主を期待してきたと思いますが、これまでその期待は裏切られ続けてきたのだと思います。他の人の救い主は自分たちの救いにはならなかった。誰も、自分たちの事なんて気にしてくれなかった。しかしこの救い主は違う。こんな羊飼いである自分のところに来てくれた、これが彼らにとってのリアルな福音の出来事になったのだと思います。私たちには何もできないけれど、神は私たちを見捨てておられなかった。神は私たちを見放さなかった。これが彼らが救い主に出会う前に与えられた言葉の力、感動を与えるまさに福音宣教の力そのものであるのです。

羊飼いたちはイエスを探して会うことができました。つまり、この天使の言葉を自分の出来事に舌ということです。この出来事を持って、彼らには何かが変わったはずです。置かれている社会的な現実は恐らくなにも変わっていないと思います。しかし、彼らの心に希望が宿った。神が私達と共におられる。これが私たちの中に生まれる時に、私たちは暗闇の中でさえ、夜明けを待ち望み歩んでいくことができるようになるのです。小さな希望の光、小さな命、吹けば飛ぶような存在。しかし神は、そこに新しい命をお与えになります。神は私たちが信仰を持たなくても、正しいことなんてできなくても、わたしたちを愛し、わたしたちを心に留めてください。これがクリスマスの救いのメッセージなのです。主の誕生を共に祝い、受け止めて参りましょう。

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