〇聖書個所 マタイによる福音書 26章17~30節
除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」。弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ」。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
〇説教「 最後の晩餐 ~ 多くの人のために裂かれたキリスト 」
みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。3月に入り暖かな陽気が多くなってきました。いよいよ春の到来ですね。春は卒業、転勤などの別れと新しい学校、新しい職場、新しい人々との出会いの季節です。お一人一人の新しい歩みの備えのためにお祈りしています。また今年は特に花粉が大量に飛散しているというようです。花粉症の皆さまのご健康の守り、また今週一週間の歩みの上に主の恵みと祝福をお祈りしています。
私たちは今、キリスト教の暦でいう「レント(受難節)」の時、イエス・キリストの十字架に至る歩みを黙想する時を過ごしています。イエス・キリストが十字架という受難を偲ばれたのは、私たちの罪を赦すためであり、それに及ぶまでの私たちへの愛があったからであったと言われます。しかしその十字架に至るまでの背景、背後にある人間模様を見ていると、イエス・キリストが十字架に即けられたのは、まさに人の罪のなせる業であったということ。言い換えれば他ならない私たちがイエス・キリストを十字架に磔にしたのだと言う事実に心が留まります。
十字架に架けられる時イエス・キリストは言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです」。(ルカ23:34)私たちは、まさにこの言葉の通り、自分が何をしているのかもわからないままに、自分たちの固定化された正義によって人を裁き、或いは扇動に踊らされ、陥れられている人に対しても無関心になり、罪なき人を十字架に即けてしまう者なのです。私たちは、この時、私たち自身の姿を顧み、私たちの唯一の正義であり愛であるイエス・キリストの言葉に改めて聞くことを通して、これまでの思い込みを打ち崩され、新たにされて歩み出して参りましょう。
今日選ばせていただいた聖書個所は、このことを考えるのにとても象徴的な「最後の晩餐」の場面です。週報を見てお気づきの通り元々は26-30節までを聖書個所として予告しておりましたが、説教の準備をする中で、イエス・キリストがパンと杯を自らの裂かれる身体と流される血に譬えてお与えになった弟子たちとはいったいどんな弟子たちであったのかということが心に留まったため、17節からの部分を加えさせていただきました。
今日のメッセージの結論から言えば、イエス・キリストが28節で語っているように、或いは聖書に記されている弟子たちの姿を見ても明らかなように、イエス・キリストは選ばれた12人の弟子たちのためだけにではなく、罪が赦される必要のある多くの人々のために体を裂かれ、血を流されたということ。そしてそれによって私たちはまさに命の回復へと導かれ救われたということに心を留めたいのです。
私たちは毎月第一主日礼拝の後に「主の晩餐式」を守っています。今日も後ほど守りますが、そこでは主イエス・キリストの裂かれた体と流された血が私たちの罪の赦しのためであったことを記念し、感謝し、また私たち一人一人がそのパンと杯を受け取ることを通して、イエス・キリストに応答していくということを大切にしています。これは信仰者にとってはイエス・キリストに従うということを改めて考えさせるうえで非常に重要なことです。またその式の中で個人としての信仰者がその他の教会員一人一人と共に「教会の約束」を共に唱和することは、この教会に結ばれた者として教会を支え福音宣教に仕えていく約束を交わすことになるので、これも非常に大切です。
しかしイエスの言葉を考えるならば、その射程・広がりというものは、決してイエス・キリストを信じるクリスチャンだけに向けられているものではなく、まさに罪に苦しむ者、或いは罪の真っただ中にいる者、罪を犯していることにさえ気が付かない私たちに向けられているものであったと言えるでしょう。17節以降の弟子たちの姿がまさにそれを証明しています。
聖書箇所に入ります。舞台はエルサレム、その日は除酵祭の一日目であったと記されています。除酵祭とはユダヤ教のお祭りの一つで、出エジプトの出来事の記念、つまりエジプトで奴隷とされていたイスラエルが神が遣わした預言者モーセによって神の約束の地カナンへと導かれた出来事の記念の祭りでもあります。これは簡単に言えば、神の民イスラエルの救いであったと言えるでしょう。それを最も象徴しているのが「過越」という出来事です。出エジプト記において、イスラエルの人々の解放を認めないエジプトに対して神は10の災いを下しますが、最も過酷であった災いに「初子の死」というものがありました。人や家畜に最初に生まれた子どもが死んでしまうという災いです。しかし小羊の血を鴨居と柱に塗ったイスラエルの人々はその災いを過ぎ越すことができたという出来事、これの記念が過越です。除酵祭と言うのは、その過越の出来事を覚えるため、酵母を入れないパンを食べ、苦しみを忘れないようにし神さまへの感謝を思い起こすこと、或いは救いの希望を新たにするという記念のお祭りであると言えると思います。
ですからイエスさま一行がこの日に過越の食事をしたのは、イスラエルの救いを神に感謝し、或いは与えられている希望を新たにするためであったと言えるでしょう。しかしイエスさまの心の内には、そのイスラエルの救いというものを大きく超えた救いの出来事への思いが与えられていたように感じられます。それがこの十字架の出来事、多くの人のために裂かれたキリストの出来事なのです。
この過越の食事をイエスさま一行がどこでしたのかと言うことに関しては不明です。マルコとルカにはもう少し詳しく「水がめを運んでいる男の主人の家であった」という情報が載っていますが、マタイはそこに注目していません。つまり場所よりもむしろ大切なのはその食事の席、交わりの内容であると言うことです。
イエスさま一行は旅をしてきていましたので基本的にはいつも食事を共に囲んでいたと思います。しかしこの食事の席は今申し上げた過越の食事であったことに加えて特別な出来事がありました。21節でイエスさまはこう言っておられます。「はっきり言っておくが、あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている」。ご丁寧にマタイ26章14-16節にはイスカリオテのユダが祭司長たちにイエスを引き渡す場面が記録されています。ですから、イエスさまの言葉は直接的にはユダのことを指していると思われます。しかし特に私たちの心に留まるのは、イエスさまがこのように告げられた言葉を聞いたときの弟子たちの動揺具合ではないでしょうか。
弟子たちは非常に心を痛めて代わる代わるこう言い始めています。「主よ、まさかわたしのことでは」。聖書の訳し方の問題ですが、この訳では弟子たちが「わたしのことでしょうか?」と申し訳なさそうに尋ねているように思えます。でもギリシャ語を見てみると、この言葉は、「主よ、まさか私のことではありませんよね?」という意味になります。さらにこの言葉の意図するところを考えてみると「まさかわたしのことではありませんよね。違いますよね!?わたしではない他の誰かのことですよね。それではそれは誰のことでしょうか」という犯人捜しに繋がっていきます。裏切るのは自分ではない。裏切るとしたらあいつじゃないか。このような心の探り合いがここでは起きていたのです。だから彼らは動揺していたのです。イエスさまに付き従ってやってきたたった12人の親しい交わりです。色々な立場の違いや思いの違いがありましたが、それでもやってきた12名の交わりです。しかし、その言葉によって私たちは相互に疑い合う関係になってしまうのです。
イエスさまは言われます。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る」。これは非常にあいまいな表現です。この条件を満たすのは、誰か特定の人物、例えばユダだけではなく、他の弟子たちも同じであるからです。しかし弟子たちはみなイエス・キリストを裏切らないと言っています。「ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った」 (マタイ26:35) 。しかし、残念ながらゲッセマネでイエスさまが捕らえられた時、弟子たちは皆逃げ去ってしまっていました。しかしこれも無理もないことなのかもしれません。
イエスさまは続けてこのように言われます。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」。これは旧約聖書の預言の成就であるということ、つまり定められた神のご計画なのだということです。つまりこれは私たちが裏切るとか裏切らないとか、イエスさまを守るために戦うとか一緒に捕まるとか、そういうことではどうすることもできない神の出来事であるということなのです。
しかしそれに続く言葉にはドキッとします。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。非常に心に突き刺さる言葉です。もし仮にこの言葉が、「人の子を裏切る者は不幸だ。その人は生まれなかった方がよかった」。というのであれば、これは裏切り者の存在を全否定しているように受け止められます。
でもイエスさまは「生まれなかった方が、その者のために良かった」。と言います。「その者のために」と言う言葉が重要です。それは、裏切ることでその本人が得る様々な苦しみに対するイエス・キリストの慰めと配慮の言葉であるように思えるからです。
例えば、直接的に裏切ったユダについて考えてみたいと思います。彼がイエス・キリストを裏切った背景は実は定かではありません。色々な理由が考えられます。例えばお金が目的だったとも言われます。でも彼が祭司長から受け取った銀貨30枚は、奴隷一人分の金額でしかありませんでした。そんなに多額のお金に目がくらんでと言うことではなかったのです。しかしそのことによって、彼は「ユダと言えば裏切り者」という一番不名誉なレッテルを張られるようになってしまっています。
「裏切る」と言う言葉は、パラディドーミというギリシャ語ですが、元々は引き渡すと言う言葉です。つまり、ユダはそもそもイエスさまを裏切る意図ではなく、自分のすべきだと信じたことをした時に、結果的に彼は祭司長、律法学者に利用されてしまったのかもしれません。ユダの末路がそれを物語っています。彼はイエスさまが有罪判決を受けたことで我に立ち帰り、自分のしてしまったことを後悔し、自責の念に駆られ、最終的に首をつって死んでしまいました。使徒言行録には地に落ちて死んだと書かれています。これは地獄に落ちるイメージです。マタイ福音書では首を吊っています。恐らく彼は木に吊られて死にました。つまり聖書の中で最も忌み嫌われる木に架けられて死ぬという呪いの死を自ら遂げたのです。呪いとは、祝福の反対です。つまり、私は神の祝福を受ける資格はもうないという現れです。これが、どれほどの苦しみであったかは私の想像をはるかに超えています。しかし、無実な人を売ったその苦しみは、恐らくそうしなければ自らを正気で保てないほどの痛みとなっていたのでしょう。ですからイエスさまが「生まれなかった方が、その者のために良かった」ということは、そのような苦しみの中に入るであろうユダへの慰めの言葉であったと受け止められるのです。
裏切るユダはこの最後の晩餐の交わりから排除されたのでしょうか。それではイエスの元から逃げ去ってしまう他の弟子たちはどうなのでしょうか。もしイエスさまに完璧に従うことが求められるのだとしたら、残念ながらそこには私たちも誰もいることができないと言わざるを得ないでしょう。しかし、イエスさまはそんな弟子たち、そんな私たちのために自らの身体と血を自らのパンと杯に置き換えて裂かれたのです。主の晩餐の出来事は、ユダやその他の裏切り者を排除して行われたのではありません。イエスさまはそんな弟子たちであることを承知で、彼らの痛みや私たちの痛みを自らのものとして引き受けられるために、私たちに自らの身体を裂き、血を流されたのです。これは一方的な恵みであり、慰めです。パウロはローマ書5:6-8でこう言います。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。 ここに愛があるのです。
一つだけ特に今日、お伝えしたいことがあります。最近またニュースで今度は輸血を拒否することで有名なキリスト教系新興宗教、いわゆる異端グループの話題が取り上げられていました。何故輸血を拒否するのか、それは聖書に「血を避けるように」という神の教えがあるからだと言います。確かに血を食してはならないこと、血は命の源であるということは聖書に記してあります。
しかしそれを持って血に触れることができないと考えることは早計です。何故ならば私たちはイエス・キリストの流された血、つまりイエス・キリストのいのちの源によって私たちに命が与えられているからです。むしろイエス・キリストの教えに倣うならば、私たちもそのいのちを用いて人を助けるということが大切なのではないかと思います。実は私は献血が一つの趣味であるのですが、日本での献血運動は、あるバプテスト派のクリスチャンドクターから始まったと言うことを聞いたことがあります。残念ながら今回出典までは調べることができませんでした。
しかし私たちは、この受難節の時、イエス・キリストの愛を改めて思い起こし、私たちの出来事としていきたいと思うのです。後ほど行われる主の晩餐式は、神の国の食卓の先取りです。イエス・キリストの恵みを改めて受け、またその歩みに倣っていくものとしましょう。願わくは、イエスの福音に心を動かされた方にはご参加いただき、共にその時を共有していきたいと思います。誰も主イエスの救いから漏れる人はいない。何故なら主イエス・キリストは全ての人のために裂かれたからであります。 このイエスの救いを信じて生きていきたい方は牧師までお声かけください。共に祈って参りましょう。