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2022年11月27日説教全文「イザヤの預言 暗闇を歩む者たちの希望」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 イザヤ書 11章1~10節

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

〇説教「イザヤの預言 暗闇を歩む者たちの希望」

みなさんおはようございます。本日からキリスト教の暦では待降節、救い主の到来を待ち望むアドヴェントの季節に入りました。アドヴェントとは「到来」を意味するラテン語から来ていますが、実は待降節自体は、聖書のどこにも根拠づけされていないものです。しかしながら、私たちはこの時期をキリスト教の伝統の一つとして大切に守りたいのです。何故ならば、この時は多くの人々が祈り待ち望みながらもなかなか与えられなかった救い主がいまや到来するという喜びを再び思い起こす時であるからです。私たちはこの時、四週間後のクリスマスに記念されるイエス・キリストの誕生までの間、救いとは何かということを改めて自分の事柄として受け取り直す時として守って参りましょう。

合わせて今日は世界バプテスト祈禱週間の礼拝でもあります。先ほど姉妹会より私たち連盟が世界に送り出している働き人たちの紹介と活動の報告がありました。実は私は連盟の国外伝道専門委員をしておりまして、国外伝道の推進をする立場でもあるため色々とお話をしたいとも思うのですが、それは後にいたしまして、今日はまず皆さんへの質問から始めたいと思います。
私たちは救い主の到来を今迎えようとしておりますが、そもそも私たちにとって「救い」とは何でしょうか。皆さんはこの「救い」という言葉を自分の言葉で他の人に伝えるとしたらなんと答えるでしょうか。さらにその救いを皆さんはどのように実感していますかと問われたら、何と答えるでしょうか。なかなかに答えることが難しいと思いますが是非この機会に共に考えたいと思うのです。

パウロは言います。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒16:31)。それでは主イエスを信じることが救いになると言うことなのでしょうか。それでは信じるとはどういうことなのでしょうか。「口で信じる」と言えばよいのでしょうか。行うことなのでしょうか。それでは信じたくても信じられない方々や信じることができない環境におられる方々は救われないのでしょうか。実はこの言葉は信者ではない方々から「信じないと救われないのか。信じる者しか救わないキリスト教は心が狭い」と反発を招くことがある言葉でもあります。やはり「救いとは何か」を考えざるを得ません。果たして「救い」とは魂の救い、「天国に行ける」とかということなのでしょうか。
私は昔、イエス・キリストが救い主であるとしたら、イエス・キリストより先に生きていた人たちは救われたのかどうなのかということを真剣に考えたことがあります。イエス・キリストは歴史的な人物ですし、イスラエルと言う特有の場所に生きていた方々でしたので、出会えなかった方々は救われないということになってしまいます。或いは今の時点でも地域的には福音が届いていないところもあります。もしイエス・キリストを信じるという一点がその救いのあるなしの判断になるならば、そのような方々は救われないということになってしまうのではないかと心配したのです。

しかし、私は今はそういうことではないのだろうと思っています。何故ならば、確かにイエス・キリストが来られたのは私たちに天の国を開くためであったと言えるかもしれません。しかしそれは信じることができる環境にいるラッキーな方々だけが進むことのできる天国なのではなく、むしろそうではない者たち。イエス・キリストが神の愛の現れであるとしたら、つまりイエス・キリストは信じることさえもできない者たちを招き救うためにやって来られるのではないかと思うからです。信じることさえもできない私たちのところにイエス・キリストがやってきてくださった。罪に満ちた混沌としたこの世で苦しむ私たちのためにやってきてくださった。そして愛されるところの一つもない私たち、救いに預かるべくもない私たちに寄り添い、その命を共に喜び、と共に泣き、私たちの疲れや重荷を和らげてくださる。そして「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と告げてくださる。自分たちの信仰で自分たちを義とできない私たちにとっては、この事実があることが救いだと思いますし、イエスさまをまさに自分の救い主と信じることができるようになるのだと思います。あるいは私たちが信じる信じないを問わず私たちを愛してくださるという先立つ恵みへの感動になりますし、まさにいつの時代の人も全ての人が誰一人区別されない普遍的な「救い」というものを感じるのです。

ですから私は、「信じることで救われる」とは、「信じなければ救われない」ということではなく、まさにその事実に生かされることで私たちは救われている者として生きることになるのだと思うのです。ですから救いとは恐らく「天国に行ける」という事柄だけではなく、まさに今を生きている私たちの歩みが神の伴いの中で支えられるものです。信仰というと心の事柄だけのように感じられる節がありますが、私の言葉で言えば、信仰とは自分の体験の中で真実だと思ったことを自らの歩みの土台に据えて生きて行くことです。ですからキリストを信じるとは、自分の心をキリストという土台に置いて歩むことです。それは言い換えれば私たちがどんなに愚かであっても罪深い者であっても、イエス・キリストは私を愛してくださっている。私たちが世間からどんな逆風にさらされようとも、神は私たちと共にいてくださる。このような土台に私たち自身の心を置くと、確かに私たちは心は救われますし、どんな困難のどん底にいようともその歩みは力を落とすことはないのです。私は、このような福音をこそ世界に伝えていきたいと思いますし、福音宣教というものは信者を獲得していくというものではなく、そこに住まう人々のいのちが神の守りの中で満たされていくことを目的とするものであると思います。

私は旧約聖書の時代の人々は、まさにそのような神の言葉、あるいは神の存在に励ましを得て歩んでいたと思うのです。旧約聖書の時代はイエス・キリストの誕生前の時代です。バビロン捕囚でイスラエルは滅亡し、ペルシャの占領時代、ローマの占領時代、人々は苦しい生活を強いられていました。彼らはまさにメシアの到来を待ち望んでいたのです。そんな彼らに救いはなかったのでしょうか。
いいえ彼らはメシアが到来するまでの間、メシアの誕生を預言したこのイザヤの言葉に慰めを受け、励ましを受け、倒れても立ち上がる力を受けて、諦めないでやってきたのです。彼らの時代には確かにメシアはお生まれにはならなかったかもしれません。しかし、彼らにはその預言が良き知らせとして響き、彼らの歩みを支えていたのです。その言葉とは、神は私たちを忘れてはいないということ。神は私たちの祈りを聞いてくださっている。神が私たちを顧みてくださるという一縷の望みであり、しかしながら彼らにとっては確固たる証拠であったからです。そして彼らはまさにその言葉を握りしめる時、彼らの内に救いは始まっていたのではないかと思うのです。

「救い」という言葉の背後には「救われていない現実」の存在があります。世の闇は依然として暗く深いです。今日の聖書個所に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。とあります。エッサイというのはダビデの父親のことです。ダビデの王朝は確かに切り倒されました。それはユダヤ人たちにとっては大変に苦しいこと、できれば避けたいこと、思い描いていた姿が断ち切られてしまうことでしかありませんでした。しかしその切り倒された株から新しい芽が萌えいでる。これは「ひこばえ」と呼ばれますが、新たな希望が生まれているということ。その希望は「狼と小羊が共に宿り」とあるように「仲間と敵」という相和しない存在がその構造を乗り越えて共に生きられる希望であると言うこと。それが全ての人の希望であるイエス・キリストであり、メシアであるとイザヤは語っているのです。
この希望は私たちにも届けられています。恐らく私たち一人一人がイエス・キリストに救いを求めたのは、それぞれに救いを得たい現実とそれを願う思いがあったからだと思います。私たちはその救いの現実を実感しているでしょうかと問われるならば、なかなか厳しい現実というものは変わっていないと言うこともあるかもしれません。しかし大切なのは、私たちの救いのために、イエス・キリストが与えられたということ現実であり、イエス・キリストが生まれのは私たちの命が満たされるためであったと言うことです。この言葉は厳しい現実に生きている私たちの内側に満ちてくる福音の言葉であり、希望と平和を告げるものであるのです。まさにこの言葉を信じた時に私たちは救われた者として生きることができるのです。

そして私たちが救われた者として生きて行くその先には、私たちの生きている社会があります。今日わたしはメッセージの冒頭で、救いと言う出来事を自分の事柄とするとお話ししましたが、実は私たちがこの時考えたいことは、イエス・キリストの誕生は、だれか特定の人のためではなく、すべての者の救い主なのだということです。ルカ福音書で天使は羊飼いに対してこう告げます。「「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
この言葉はまさに羊飼いたちへの福音でした。羊飼いとは民の中に数えられることのない者たち、もっとも小さい者のことです。しかし神の目は彼らに向いているのです。天使と言うのはアンゲロス(エンジェル)ですが、神の良き知らせ(エウアンゲリオン)を告げる者のことです。
ここでの天使とは神の言葉を告げる者として特別な存在ではありますが、私たち自身の事柄としてよくよく考えてみると、神の言葉を告げる者とは、彼ら自身が神の言葉に生かされている者です。つまり、神にあって喜びに満たされた者たちは自分の喜びだけに生きるのではなく、まさにこの天使のように、平和ならざる者たち、救いがないように見える者たちに向かっていくのです。神の言葉に生かされているものとは、神の言葉を他の者たちと共に生きる者であります。これが福音宣教なのです。

世界バプテスト祈祷週間、連盟の国外宣教の働きは、私たちがかつてアメリカ南部バプテスト連盟から多くの恵みを受けた者として、私たちも共に世界の人々と生かされていくために始められています。それはキリスト教信者を増やすための活動というよりも、一人で苦しい思いをしている人々に神はあなたのことを愛している。神はあなたと共に生きようとされていて、そのために今神は私たちを遣わされたと言うことを示すためであります。宣教とは、神の恵みを伝え、そこに住む一人一人と共に生きて行くことであるのです。私たちの教会もかつて同じような宣教の思いを持ってやってきた宣教師たち、教育者たちによって造られました。「西南よ、キリストに忠実なれ」C.K.ドージャー先生は言われました。これは学校のために語られた言葉だと思いますが、私たち学院教会にも向けられています。それは、私たちがイエス・キリストのように、他者との出会いの中で生き、喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣くという関係性に生きて行く。誰かもわからない人に対しても隣人になっていくという風に生きて行きなさいという招きなのではないかと思うのです。かつて世界とは遠いところでした。しかしいまや世界は近くなりました。国籍・民族・文化色々な違いのある方々が共に生きている場所になっています。世界とはいまや国内国外を問わず、私たちが生きている社会そのものであります。

世界にはいたるところに争いがあります。現在の戦争は同じキリスト教を国教とする国同士によって行われています。仮に世界中がキリスト教を信じたとしても争いは止まないのかもしれません。しかし私たちには希望があります。イエス・キリストが私たちの全ての者の救い主となられたということは、すべての違いのある者たちのただ中にイエス・キリストがおられるということだからです。神が私たちにイエス・キリストを与え共に生きられたのは、違いを持った者同士がその違いを尊重し合い、対話し歩んでいくことなのです。ですから私たちもまた神の愛を受けた者として、世界のために祈り、また私たち自身も世界に生きる方々と共に生きる者となって参りましょう。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20)。
「アーメン。主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが全ての者と共にあるように」(黙示22:20-21)。

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