ニュースレター

2022年9月18日説教全文「永遠の命は聖書の中に!?」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

〇聖書個所 ヨハネによる福音書5章39~40節

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。

〇説教「永遠の命は聖書の中に!?」

みなさんおはようございます。今日は台風の近づく中ですが、このように共に礼拝を守れることを嬉しく思います。今日は特に会堂にお集まりの方々だけではなく、台風の影響を考え会堂に集まられることは控え、オンラインで説教を聞いてくださっている方々もおられると思います。今日は、「教会学校月間」の礼拝でもありますが教会学校もお休みになってしまいました。しかし、そんなみなさまのご健康が守られ日々の歩みの上に主の恵みと守りがありますようにお祈りしたいと思います。
本日は「永遠の命は聖書の中に!?」という説教題でお話しさせていただきます。聖書個所を読んでいただきましたが、もう一度お読みします。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。今日はこの箇所から、イエス・キリストが言おうとしていることを黙想と、教会学校での学びを関連つけてお話ししたいと思います。

今日は教会学校についてのお話ですが、私はまだ西南学院教会の教会学校に参加したことがありませんので、私の体験としてお話をしたいと思います。皆さんは「教会学校」と聞くとどのようなイメージをお持ちでしょうか?私はクリスチャンホーム育ちですので、かつて教会学校の生徒だった時は、主日礼拝の前に行われる子ども礼拝に出席し、クラスに分かれて聖書のお話を共に聴くということをしていました。教会学校の先生たちは、お兄ちゃん、お姉ちゃんのような存在で、牧師よりも距離感が近く色々なことを教えてもらったり遊んでもらったりしました。そのような交わりの中で私は育まれてきましたし、大きくなってからは私自身も教会学校教師として奉仕をしました。そんな関わりを通して教会はわたしにとって大切な居場所の一つになっていきました。

ただ私の場合、正直に言うと教会学校で学んだことは、神さまがいるということ。そしてその神さまが私たちを愛してくださってイエスさまをお送りくださったこと、そして私たちの罪のために十字架にかかり、三日目に復活されたこと、といういわゆる聖書の教えでありました。聖書の知識という意味では私の中に確実に積み重ねられていったと思いますが、その一方で残念ながら決定的に私の中で残らなかったことがありました。それがイエス・キリストという方と自分との個人的な関わり、という最も大切なことでした。いわゆる教え、聖書とはこう言うものだということは教えられて理解できるものである一方、イエスさまとの個人的な出会いが教会学校という学びの場ではわたしには起こらなかったのです。恐らくそれは、教えられて聞いているだけであったからだと思います。
ところがその後ある出来事が起こり、私は初めて自らの手で聖書を読み、考えました。そのとき、私はイエス・キリストと出会ったと感じました。それは私がイエスさまの話を自分自身として読んでいくことによって起きました。「求めよ、そうすれば与えられる」と言いますが、イエスさまはその求める思いに応えてくださるということを感じました。
私たち西南学院教会が加盟している日本バプテスト連盟の教会学校は一つの特徴があります。全年齢層の教会学校を行っているということです。大人が子供に教える教会学校は、どこの教派でもやっているのですが、バプテストは全年齢層で行っているのです。それは、すべての人が日々聖書に親しみ、自らの出来事としてイエス・キリストと出会っていくことを大切にしているからだと言えます。それは連盟の教会学校の目的が示しています次のような一文です。

「教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある」。

つまり、聖書を読んで「正解」を得て終わるものではない。バプテスマを受けてクリスチャンになるのがゴールでもない。むしろ私たちが日曜日のこの礼拝の時間だけではなく生の全領域でキリストを信じる者として生きていくために、私たちは日々なる学び、終わりのない学びを続けるということ。それは言い換えればつまり、真理を追い求め続けるということであり、さらに言えば、その日々の出会いによって私たち自身の固定化した価値観が変えられ続けて行くことを喜んでいくことでもあります。これが礼拝、あるいは教会学校の中で行われる神の言葉との対話であり、私たちにとってもっとも大切なことだと思うのです。ですから、もし皆さんの中でクリスチャンじゃないからとかで引け目を感じることがあるならそんな必要はまったくありませんということを改めてお伝えしておきたいと思います。

イエス・キリストは言います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。これはどういう意味でしょうか?私たちは聖書の中、あるいはその教えのなかに永遠のいのちがあると思うかもしれません。確かに「聖書の不思議」とか「奥義を知る」みたいな読み方をする人もおられます。しかしイエス・キリストが言おうとしていることは、聖書の中に隠されているのではなく、聖書によって証しされているイエス・キリストの中に永遠のいのちがあるということです。それは神秘としての聖書でも、固定化された教えでもなく、人々の出会いの中で響いていくイエス・キリストの福音こそが明らかとされた答えであるということです。それがわたしたちの永遠の命に繋がるいのちの言葉なのではないかと思います。
私は、先日9月4日に当教会の主任牧師として赴任しました。礼拝が終わった後臨時総会が開催され牧師就任の受諾を行いましたが、その際踊協力牧師より、このように言われました。「西南学院教会の伝統を大切にしてくださいますか」。私はその質問に「はい」と答えたのですが、のちのちそれでは西南学院教会の伝統とは何かということを考えました。招聘段階でもその「伝統」について見せていただくことはありませんでした。80周年誌とかも読んでみましたが乗っていませんでした。恐らく明文化されているものではないと思います。しかしバプテストの伝統については木村文太郎先生の著書にありました。それは「私たちの大切にしている信仰告白は信条という固定化されたものではなく歴史的であり動的なもの」だということです。。ですかあ西南学院教会の伝統というものも、これまで教会がやってきた「形」をそのままに行っていくということではないのでしょう。ちなみに私が招聘を受諾した際も前任者の後継や引継ぎではなく、「新しい牧師」という理解であるということも招聘委員では確認しております。
そういう意味で言うと、その伝統というものは、むしろこの教会が西南学院という学校、教員や学生のために始められた原点に立ち返り、学問の本文が日進月歩する真理の探究である以上、私たち西南学院教会もまた日々イエス・キリストの真理を探究し、イエス・キリストが生きられたように、その福音をこの社会の中で人々と共に生きて行けるように、御言葉に問われ、変えられ続けて行かなければならないのではないかと思うのです。パウロもこう言っています。「わたしは既にそれを得たというのではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによってとらえられているからです」(フィリピ3:12)。イエス・キリストを求め続けること。この社会の中で御言葉に問われ続けること。アカデミックかつ信仰的に外に開かれた教会であり続けることがこの教会の使命なのではないかと今わたしは受け取っています。

ちなみに私が先月までおりました神戸バプテスト教会は、1992年、今よりおよそ30年前に「教会学校」を「共育のひろば」と呼び変え、誰かが一方通行的に教えるのではなく、聖書を真ん中においてみんなで聖書に聞き、自分たちに与えられた言葉を分かち合うことをしておりました。そんな神戸教会が大切にしている「教会総意(教会員の思い)」のなかにこう言う言葉があります。「教会で語られている言葉、牧師の言葉を無条件に鵜呑みにしてはいけない。むしろその言葉に反応し、応答し、自分に示されている言葉を探ることを大切にする」というものです。
サイコーな言葉だと思いませんか。私は牧師として赴任した当初はびっくりしました。牧師の言葉を聞かないって言われたような気がしたからです。でもそうではないのです。自分の中で反応する、その言葉の意味を自分の言葉にしていくことが大切ということなのです。

説教は神の言葉だと言われます。しかしもし仮に説教が神の言葉だとしたら、一体どこから神の言葉になるのでしょうか。もし私が語る言葉が直ちに神の言葉になると言うのであれば、それは怖いことです。牧師だって間違いがある罪びとの一人です。しかも聖書のことや真理を全てわかっているわけでもないのです。それでは何故説教が神の言葉と言われるのか。それは、恐らく聞いた人々のただ中でその言葉が自由に響き、神の出来事となって行くことだからなのではないかと思います。正直に言いますが、私がこのようにメッセージを語りますが、それが100%私が思った通りにみなさんの中に入っていくわけではないと思います。恐らく、色々な受け取り方があります。話している言葉と受け取った言葉には差が生じます。でも、その受け取った言葉の中で、「いや、先生はああ言っていたけれど、どういうことなのか」という疑問が残り続けることが大切だと思うのです。すっと理解するより疑問の種を残す方が私たちには残るからです。イエス・キリストが「譬え話」をよくした理由はそういうことなのではないかと私は思うのです。引っかかることが大事。そして自分の中で考えること、求めること。そこに聖霊が働いて真理にたどり着くのが説教であり神の言葉だと私は信じるのです。

ちなみに神戸教会の「共育のひろば」ではよく「今日の西脇のメッセージはよくわからなかった」ということが話されていました。そして何が分からなかったかとお聞きする中で、私にとってもさらに広い視野が与えられるということがありました。この相互の信徒による応答していく関係性が本当に大切なことだと思います。私はそれによって傷つくこともままありましたが、しかし励ましや慰めを受けてやってきました。西南学院教会の皆さんにも是非メッセージに対する応答を頂きたいと思います。「良かった」という言葉だけでは、私は困ってしまいます。帰ってくる言葉がないと牧師は暗闇に言葉を放っているようで不安になってしまうのです。是非「良かったです」の他に「わたしは違うと思います。そしてその理由について」も含めてお話しいただければ、それは私の為にもなることですので、どうぞよろしくお願いします。
残念ながら、多くの教会でコロナによって「教会学校」や「祈祷会」が休止になりました。それによって私たちは聖書を開いたり祈り合ったり、話し合う機会が減ったのではないでしょうか。もちろん、聖書を読むことも祈ることも一人でもできます。しかしやはり共に祈りを合わせ、共に聖書を読み、真理を求めて語り合う交わりこそ、バプテスト教会の醍醐味であるのです。

聖書の箇所に戻ります。イエス・キリストは言います。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。
私たちが見続けるべきはイエス・キリストの姿です。それは人々と出会っていく姿であり、その福音とは出会う人々と共に生きていく中で紡がれてきた言葉です。それは、ファリサイ派の人々が会堂の中で律法の言葉を教科書のように読み、信じてきたこととはまるで違うことです。神が律法を人々に与えたのは、律法を守る人が神の目に義とされるためではなく、人々が神の民として共に生きていくために教えた言葉であるからです。しかし人々はその言葉をルール化しがんじがらめになりました。しかしイエス・キリストはそこから人々を解放し、自由へと導くのです。そしてイエス・キリストはそれを語るだけではなく、それに生きていったのです。
聖書が示しているのは、人々を愛し創造された神の深いご計画の内に、神の愛の現れとしてイエス・キリストが与えられたということです。もし私たちがその姿に従うとすれば、それはイエスさまの歩みや、言葉に私たちが問われ、悔い改めていくことから始まっていくのではないでしょうか。しかし、そのようなイエス・キリストの交わりのただ中にこそ、永遠のいのちと呼ばれるものがあるなのではないかとわたしは思うのです。

イエス・キリストは言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。
イエス・キリストの歩みはまさにこの言葉に尽きます。そして今言葉は、この私たちに差し出されています。神のこの愛を私たちはどのように生きて行くのでしょうか。共に祈りつつ歩みだしてまいりましょう。

関連記事

TOP