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2024年9月29日説教全文「新しい命に生きるためのバプテスマ 」

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〇ローマの信徒への手紙 6章3~14節

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

〇説教「 新しい命に生きるためのバプテスマ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。9月も下旬に入り、ようやく少し涼しい風が吹くようになりました。寒暖の差に体調を崩しやすくなる時期でもあります。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

今日の礼拝は、召天者を記念する礼拝です。本日この会堂には、教会の信仰の先達のみなさま、また私たちのそれぞれの家族、友人・知人の写真が飾られています。それぞれのご事情があり写真をお並べになられない方もおられます。また今日は召天者記念名簿がわたしたちの手元にあります。今、ここにお名前が記されている方はおよそ266人。しかしこの中に加えられていない方々もおられます。この時間をひっそりとご自分の大切な方を思い浮かべながら過ごしておられる方もおられるでしょう。
召天者を記念する時、私たちの心にはその人々との様々な思い出が思い浮かんできます。初めてその人と出会った日のこと、共に交わる中で、語り合った時の言葉、共に携わった出来事の数々。そして、別れの時を思い起こされる方もおられるでしょう。思い返すと、何年経っても、まるで月日が流れていないかのように、様々な感情が心のなかに湧き溢れるものです。しかし私たちがこの日に覚えたいことは、お一人一人は死んでしまった、亡くなってしまった、失われてしまったのではなく、それぞれの時に主なる神に天の国に召されていったということです。キリスト教は復活の宗教であります。死は終わりの出来事ではありません。何故ならば、私たちはイエス・キリストが十字架の死から復活されたことを信じており、そのイエスを復活させた神を信じているからです。その神が聖書を通してわたしたちに約束されたことは、私たちもまた神の国に召されていく時がいずれ来る。しかしそれは悲しみの時ではなく、勝利の日であり、「我らの国籍は天に在り」ということを覚えさせることであります。私たちは、日曜日に礼拝を守っていますが、これを主の日と呼びます。それは新しい週の初めの日にイエス・キリストがよみがえったことを記念するためなのです。死は滅ぼされ、私たちはむしろ神の国における新しいいのちの始まりに預かるのです。

確かに私たちは肉体を通して交わることはもうできなくなってしまった。物理的な別離は悲しいものです。けれども、その関係は断たれたのではなく、なお今も変わらずに残っているのである。そして、また来るべき時に神の国において再会できる希望が主イエス・キリストにおいて与えられている。これを私たちは毎週の礼拝で確認し、主を礼拝するのです。ですから私たちは今日も、天の国における再会の希望が与えられていることを心に留めたいのです。皆さまの心に慰めと平和を祈りつつ、復活の希望と喜びについて今日はお話しさせていただきます。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがローマの教会の信徒に宛てて書いた手紙です。パウロは、3回にわたる伝道旅行を行い、イエス・キリストの教えをギリシャ世界に伝えた人物ですが、ローマ帝国の首都ローマに向かう希望を始め、地の果てと言われたイスパニアにまで行く計画を持っていた人でした。そんな彼が、いまだ行ったこともないローマの教会に宛てて、自分の信じている内容を神学的にまとめて書いた彼の最後の手紙と言われており、まさに信仰の集大成としてまとめられています。

パウロがまずこの手紙の最初に伝えようとしていることは「私は福音を恥としない」ということです。福音とは何かそれは、彼の言葉では、信じる者に救いをもたらす神の力のことです。福音とは神の力である。つまり信仰者を救い、強め、守り、その歩みを支える者が福音であるのです。では、その福音はどのように伝わったのかと言えば、イエス・キリストの語られた教え、あるいは行われた出来事です。イエスが行ったことは、福音書に数多く記録されています。これはイエスが自ら書き残したものではなく、弟子たちや出会いが与えられた人々が経験した出来事や思いをまとめて書き記したものであります。マタイによる福音書4章23-25節にはいわゆる「まとめ記事」としてこう記されています。

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(マタイ4:23-25)。

具体的かつ詳細なイエスの行いの記録もあるのですが、まとめればこのような働きであったと言えるでしょう。この箇所によるならば、イエスは諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた。そして民衆のありとあらゆる病気や煩いを癒すということでした。神の教えを伝えることだけではなく、行うこと。しかもとても具体的に書かれているいろいろな病気や苦しみに悩むこと、悪霊に取りつかれること、てんかん、中風など、あらゆる病人の困りごとに耳を傾け、苦しんでいる病を癒し、思い悩みを解消することでした。しかし、これは信仰と交換条件でなされた業なのではなく、イエスに出会った人々が、文字通り助けられ、救いを得て、イエスこそ、主だ。神の子だと信じるに至ったわけです。その教えに従って歩んだのがキリスト教であると言えるでしょう。

しかし、こういう出来事によって「救われた」というのは、私たちの持っている価値観からすると、弱い人というイメージが残るのではないかと思うのです。むしろ「強い人」とは「自分で問題解決する人」、「立ち向かえる人」、「実行して成功することができる人」が私たちの価値観からすると「強い人」であって、私たちはそうなりたいと思います。ですから、福音というものに救いを得ていると言うことは弱い人である。このようなイメージで福音を恥と考えてしまうということが、パウロの当時からもあったのです。
「私は福音を恥としない」この背景には、「福音に救われているなんて恥だ」「自分の努力が足りないからだ。自分の身は自分で救え」というような考え方は、私たちの価値観にもあると思います。

しかし、パウロはそれでは終わりません。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かな者ですが、私たち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです」 (Ⅰコリント1:25)。このように語り、信仰を持つことの大切さ。そしてその信仰によって得られる神の力の強さ、安心感、充足感の大切さを教えるのです。

イエス・キリストが為した福音の真骨頂は十字架による死です。これは人々の罪の身代わりの死であり、犠牲の死であると言われます。それはヨハネ3:16「神はその独り子を賜ったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。にある通り、世、つまりこの世の全て、わたしたちをも含めて愛された神の愛は、独り子を惜しまず与えるほどのものであったというのです。
これは、「強い人」からすれば、何を言っているのかよくわからないと思われる内容です。しかし、福音に救われ、生かされている者たちからすれば、まさにアメージンググレイス、驚くばかりの恵みに他なりません。言いたいことはつまり神が私たち一人一人に愛を示してくださっている。そしてそれが具体的な出来事の中で私たちに生じる力になることであるのです。私たちは困難の中でも、苦しみの中でも、まさに聖書にしるされているように、神は今も私たちと共にいてくださるという信頼と平安に繋がっていくものであるからです。

そしてイエスの復活という出来事。これは、にわかには信じがたい事柄と思われますが、神がそのイエスの歩みを是としたこと。これを神が義とされた結果起きた唯一の出来事であると聖書には書かれています。つまり弱い者と共に生き、喜びを喜び、悲しみを悲しむ。これは強い人からは尊ばれないこと、むしろ無視されやすいことですが、実はこれがやはり人の生きる道であり、神が私たちに願っている道であると言うことを示されたことなのです。もしイエスが復活しなかったのなら、正しい行いより、愛の行いより、やはり自分の身を自分で守ることが大切になってしまいます。自己犠牲は結局のところ、無駄な死になってしまいます。神の目はそこには向いていないと言うことになるでしょう。強い人が生き残り、弱い人はただ声をあげることさえできず取り残されていく社会です。
しかし、そうではないのです。イエスを信じる者は、生きているときには、一人でがむしゃらに生きるのではなく、神が共におられることに力を受けて、平安の中を生きることができる。倒れても神の伴いによって力を受けて立ち上がることができる。苦しいときにも寄り添い心を通わせてくださる。そうして困難の中においても、その道を歩み通すことができます。そして死のときに際しても、神が私たちを天の御国に招き、復活の希望を与えてくださる。この平安と希望の中を生きることができるのです。

実は私は当初、この聖書の箇所から、神が召された者たちを天の御国において、新しい永遠の命に生かされていることをお伝えしようと思いました。つまり、神を信じて生きていた者たちは、福音を恥とせず、まさに神の救いと助けの中で信仰を持ち、今は神に招かれて神の御許にいるのだということです。今しかし、今日の箇所をよくよく読んでみると、この箇所が語っているのは、やはり今を生きている者たちに向けてのメッセージであるということに気付くのです。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマの信徒への手紙6:4~8)。

私たちがこの言葉から信じたいことは、キリストが死者の中から復活させられたように、イエスを信じる者たちも、あるいはイエスを求める者たちも神によって復活されるという希望に委ねて生きると言うことなのです。召された者たちは神の元におられます。私たちにできることは神の御手に召天者を委ね、神の言葉を信じて生きることなのです。

そして、わたしたちがこの言葉を信じた時、まさに私たちもまた同じ神に感謝と平安を持って生きることができるようになります。ここに洗礼(バプテスマ)と言う言葉があります。バプテスマは私たちの教会でも大切にしている一つの信仰儀礼です。しかしバプテスマを受けることが神の国に入る交換条件のようなものではありません。イエスの愛を信じ、まさにバプテスマ、自分の罪を悔い改め新しい命に生かされ、立ち返っていく生きていく時に、私たちは神の平安に生かされていくことになるのです。

この一年で私が関わった葬儀はお二方です。その他に教会員やその他の皆さまのご家族で召された方が数名おられることを知っております。今はまだ悲しみの中におられる方もいます。受け入れらない痛みがまだまだあります。様々な思いも募ります。しかし、私たちは神に委ねることができるのです。これが神の恵みであり、信仰の深みです。
生と死を超越して存在しておられる神の恵みを信じ、十字架と復活の主イエス・キリストの愛に委ね、わたしたちも歩み出してまいりましょう。

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