〇ローマの信徒への手紙 10章5~17節
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」。これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある」。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
〇説教「 主に望みを置くものは、決して失望することはない 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。10月に入り、ようやく秋らしい風が吹くようになりました。しかし、寒暖の差に体調を崩しやすくなる時期でもあります。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。
本日は久しぶりに「教会修養会」が開催されるということで、この礼拝においても修養会のためのテーマでお話をします。「修養会」という言葉は、あまり聞きなじみのない言葉かもしれません。英語にすると「リトリート」、treatとは「扱う」という意味の言葉ですが、reが付くと、「取り扱われる」という意味になります。つまり、日常の歩みから少し身を引いて、神さまからの取り扱いを受けることです。退修会とも言います。言い換えれば、日々の歩みの中であまり気付くことができない神さまの恵みに感謝をし、心と体に休息を受ける時であります。
私たちが修養会の中で話し合いたいことは、まず私たちが神さまから受けている恵みを分かち合うことです。コロナのこともあり、なかなか顔と顔を合わせてお話ししないうちに、なんとなく人と距離を取るようになってしまった。人に話しかけることに遠慮するようになってしまったと言うこともあります。恐らく多かれ少なかれ私たちは皆、そういう状況がありました。ですから今回、改めて顔と顔を合わせ初めての方ともお話をし、それぞれが大切にしている神さまの愛を分かち合い、互いのために祈り合う関係が作れたら、ということを願っております。
そしてそのような交わりの中で、この西南学院教会がこれからもキリストの福音宣教をするために、なにをしていくことが期待されているか、ということを皆さんで祈り求めていきたいのです。特にこの西南学院バプテスト教会は100周年を経て、牧師が交代し、新しく歩み出しています。これまでの主の恵みと守りを感謝すると共に、信仰の先達の足跡を振り返り、受け継ぐべき信仰の遺産を確認し、聖霊の導きによって日々新しくされていくべき教会活動を、人々との出会いの中で、選び取っていきたいと願うのです。
特に、キリスト教会の中でも、バプテスト教会とはどういう教会か。これはその誕生からの物語と、大切にしている事柄を以前お話ししました。簡単に言うと、ヨーロッパ全体がキリスト教国となっている中、言い換えるとすべての国民がキリスト教徒であり、国が指定した教会に行き、その教会の牧師は国が定めた公務員であり、国が決めた礼拝作法に従って礼拝を守ることが正しいとされていた時代に、「信仰の在り方って、国が決めるものなの?」という疑念を持った人々が、「いや、信仰は国が決めるものではない。自分たちのものである」ということに確信を持ち、「自分たちの信仰によって生きよう。自分たちの教会は自分たちで作ろう。自分たちの牧師を自分たちで決めよう。自分たちで教会を支えよう」ということを選び取ったことによって始まりました。そのためには「自分たちで聖書を読もう」。だれかにお任せするのではなく、「自覚的に奉仕しよう」。「民主的に教会運営をしよう」。「自覚的な信仰によって生きよう」。「信教の自由、自分が信じたいものを信じれる自由を尊重しよう」。そして「政教分離、政治と宗教が互いに利用されないようにしよう」。この思いを持って始められたのが、バプテスト教会です。
自分たちの信仰を自分たちで守る。そのための教会を作る。こういう風に考えると、自分たちが生きている間だけその教会があればよいようにも思えます。しかし、そのようなバプテスト教会が初めてロンドンで誕生してから世界に広がっていき、400年後の現在もこのように信仰が継承されてきているのは、やはり私たちの信仰の在り方、自由に自覚的にただイエス・キリストの福音を求めてこの教会にやってくる人々が日々起こされていったからに他なりません。
実は、バプテスト教会は、信仰を繋いでいくのに極めて困難な組織体をしています。何故かと言うと、バプテスト教会は、「自然増」がありません。自然増と言うのは、子どもが生まれたら自動的にその教会のメンバーに加えられるということがないためです。私たちの教会の入会に必要なのは、「自覚的な信仰告白」です。その人が信仰を持ちたい、そしてこの教会で信仰生活を送っていきたいと思わない限り、会員は増えないのです。ですから、そのままでは一世代で終わってしまう教会であります。信仰を繋いでいくためには、福音宣教が不可欠なのです。でもそれは教会を維持することを目的とした伝道活動、あるいはバプテスマ者を獲得すると言うことではありません。むしろバプテスト教会に本当に必要なのは、私たち一人一人の信仰者が、その自覚的な信仰によって生き生きとして生きていくことです。その私たちの姿を見て、周りの人々が神さまを感じること。これが私たちの伝道になるのです。そのためバプテスト教会では、それぞれの信徒の聖書の学びと信仰成長と奉仕活動と福音宣教(証しと行い)が不可欠だと言われるのです。
こう言うとハードルが高く思われるかもしれません。しかし、それが神が求める本当の教会の姿であり、信仰者の生き方だと信じるのが、バプテスト教会なのです。そのために、やはり私たちは信仰の原点に立ち返っていくことが大切です。
今日の聖書個所で、私が皆さんにお伝えしたいと思うことは、私たちの信仰生活の土台は喜びであるということです。私たちは掟を守って厳格に生きていくことを強いられているわけではありません。或いは救われるために節制した生活、苦行を課せられているわけではありません。義務で奉仕活動をしなさい、そうしなければ救われないというような縛りは一切ありません。時々、キリスト教系新興宗教や、一部の過激なキリスト教会はそのように言うことがありますので注意が必要です。しかしバプテスト教会を始め、穏健な教会では、信仰生活は私たちに救いをお与えくださった神への感謝と喜びから始まるのです。
パウロが10章5-7節で言っているように、私たちは他の人の救いについて、誰が天国に行き、誰が地獄に行くかなんて論じ合っている暇はありません。あるいは私たちがどうなるかということを心配する必要もありません。何故ならば、私たちは、神がイエスを死者の中から復活させられたと言うことを信じているからです。パウロは私たちがそれを信じることによって救われると言います。
「救い」と言うのは、説明が難しい言葉です。何故ならば、これを信じたら救われると言うならば、それを信じない人は救われないということに直結してしまうからです。そしてそれは前段の文脈を考えると、「掟」によるものでありキリストの救いを無にしてしまうことであるのです。信じて救われるとは何か。それは神が今私たちに御言葉をお与え下さっているということ。わたしたちに伴っていてくださることを信じることで得られる救いなのです。ヨハネ福音書には「はじめに言葉があった」とありますが、その神の言葉が肉となって、私たちのところに与えられたのだ。それは私たちが救いに相応しい何かをしたからでも、救われるにふさわしい人物であるからでもありません。ただ、何も誇ることがないような私たちに、神が一方的に無条件でお与えくださった愛。これが示されたことが私たちの救いに他ならないのです。
言い換えれば、救いは全ての人に与えられています。「今日、ダビデの町にあなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」。この天使の告げ知らせは、私たちという個人的で直接的な救い主が存在するのだという福音です。しかし、その福音を憎み、受け入れなかったヘロデのような人物もいます。要は信じること、受け入れること、その時に、その救いは私たち個人の出来事になっていくと言うことです。「信じる者は救われる」。これはまさに信じた時に自分の力になっていく事柄であるということなのです。何故ならば、これを受け入れた時、私たちは神を主とした関係、神の愛に立ち返っていくことになるからです。これが良く言われる「悔い改め」ということです。悪いことから身を遠ざけることではなく、むしろ神の愛と守りの関係の中に生かされるということなのです。
パウロは言います。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」。心に信じたことは、私たちの姿から溢れ出ることになります。口で言い表すということは、私たちの思いの言語化ですが、私たちの心から溢れる思いが喜びとなって出てくることが、それを見ている人々に伝わっていくことなのです。むしろ人は、信じたとおりに生きていくものであるからです。
「主を信じる者は、誰も失望することがない」。これが私たちがその信仰の歩みの上で体験的に知っていることです。誤解がないように厳密に言えば、もちろん、失望することはあります。「なんで、神さま」と思うこと。がっかりすること。なかなか思ったようにいかないことは、ままあることです。神さまを信じたらすべてがうまくいくと言うことではありません。しかしながら、私たちは、この私たちの祈りを、願いを、叫びを聞いてくださる神がそこにいると言うことを信じる時に、再び立ち上がっていく力を得て、困難の中を歩み通していけるようになるのです。実はバプテスト教会は、その歩みの始まりから困難の連続でした。牧師は投獄され、教会は迫害され、集会は追いやられました。言い換えれば、失望の連続であったと思います。しかし、「私が弱いときにこそ、主は強い」という聖書の言葉があるように、確かに主がおられるから私たちは諦めず、希望を失わないで、どんな時にも感謝して歩んでいくことができるようになるのです。ですから私たちは決して失望に終わることはないのです。
全ては神の愛から始まった物語です。そこには何の制限も区別もありません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」からです。民族主義、宗教対立、優生思想、どちらが正しいかなどでの争いなど、私たちはこのような構造に陥りやすい者たちです。キリスト教は一神教だから自分たちの神しか認めないと言われることもあります。しかし、バプテストは信教の自由を尊重します。人は信じたい神を信じて良いのだと思います。しかし、私たち自身の信仰告白では、神は全てのものの神であり、ご自分を求める者たちと共におられる方であります。神は、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であるからです。(マタイ5:45)
私たちがすることは、この神の存在を求めている人々に届けることです。この神が私たちお与えになったイエス・キリストを伝えることです。その福音を知らせることです。それは私たち自身が信じている内容であり、私たちが生きている歩みであります。
パウロはこう言います。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:14-15)
良い知らせを伝える者の足は、どちらかと言うと、汗まみれで砂埃がついている働いている者の足であります。一見、綺麗なもののようには見えないものでしょう。しかし、その知らせを待っている者たちにとっては、その人の存在が尊いのです。助けなく、救いなく、どのように歩んで行ったらよいか、その答えを求めつつも、毎日の仕事や生活に追われ、考える間もなく歩んでいる方々もおられます。待ちに待っていた福音。神はあなたと共におられる。そしてこの西南学院教会は、そんなあなたの教会である。わたしたちもまた、神さまから招かれて出会いが与えられてこの教会にやってきたように、私たちもまたこの神の御言葉に聞き、神の御心を行い、歩んで参りましょう。