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2026年3月8日説教全文「隣人愛とは何か」

 

〇マルコによる福音書12章28~34節(並行箇所:ルカ10章25~28節)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

〇説教「 隣人愛とは何か 」

キリスト教はしばしば「愛の宗教」と言われます。今回は、新約聖書の中でもよく知られているテーマの一つである「隣人愛」について学んでいきたいと思います。

まず初めに、福音書を理解するための前提となる背景について少しお話ししておきたいと思います。私たちにとって福音書はとてもなじみ深いものですが、その成立の背景を理解することは、信仰を深めるうえでも大切なことです。

四つの福音書、すなわちマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのうち、最初に書かれたのはマルコ福音書だと考えられています。しかしこれは、イエスの宣教に直接参加していた弟子が、自分の記憶を頼りに書いたものではありません。マルコ福音書は、教会の中で語り伝えられてきた口伝伝承をもとに書かれました。そして、その内容に関する伝承は、すでに教会全体の共有財産になっていたのです。

その後、マタイとルカが福音書を書くときに、このマルコ福音書の内容を参考にしました。つまり、先に成立していたマルコの伝承を引き継いで、それぞれの福音書を書いたのです。この三つの福音書は、視点や内容がよく似ているため、「共観福音書」と呼ばれています。しかし、マタイとルカではマルコの写し方が違います。マタイは、できるだけマルコの元の内容を変えず、そのまま保存しました。言ってみれば、伝承を大切に守る保守的なタイプです。それに対してルカは、マルコの内容を選び取り、引き継ぐところは引き継ぎ、採用しないところは思い切って省略しながら、新しい内容を加えていきました。いわばルカは編集型、改革派と言えるでしょう。

今日は、このマルコとルカを読み比べながら、ルカがマルコの内容をどのように引き継ぎ、またどのように変えているのかを見ていきたいと思います。

今日のテーマは「隣人愛」ですが、聖書の中で直接このテーマが語られている箇所は、それほど多くありません。福音書の中では、今日お読みしたマルコ12章28節から34節と、これから読むルカ10章25節から28節がよく比較されます。

マルコ12章では、主イエスと律法学者との問答が描かれています。律法学者は、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」とイエスに尋ねます。これに対して主イエスは、「神を愛すること、そして隣人を愛することが最も大切である」と答えられました。

ところが、この箇所を注意深く読んでみると、前半と後半の内容に少し食い違いがあることが分かります。もしよければ、28節から31節までを前半、32節から34節までを後半として、聖書に線を引いてみてください。すると、前半では「心と精神と思いを尽くして神を愛せよ」と書かれているのに対し、後半では「心と知恵と力を尽くして」と、「知恵」という言葉が出てきます。さらに、前半では「神と隣人への愛が最も大切な掟である」と語られているのに対して、後半では「焼き尽くす献げ物よりも優れている」と、宗教儀式との比較になっています。

つまり後半の内容をまとめると、「知恵を尽くして神を愛すること、そして愛は宗教儀式よりも大切である」という主張になります。ですが、このような主張は前半の会話の流れからは出てきません。話題に出ていないテーマが、後半で突然現れているのです。

そこで聖書学者たちはこう考えます。前半と後半は、もともと別々の小さな物語だったのではないか、と。

これを少し分かりやすく、映画の撮影に例えてみましょう。
前半の対話シーンを撮影したあと、律法学者役の俳優さんが、何かの事情で出演できなくなった。それで後から別の俳優さんに交代して撮影した。ところが映ると困るので、うまく顔が映らないように編集して、一つの対話の場面が続いているように見えるようにした。ちょうどそのようにこの箇所は編集されています。
ということは、前半(ユダヤ)と後半(ギリシャ)の主イエスの対話者は、(元々の伝承、物語が異なるので)実は別人だった可能性があるということです。

ではなぜマルコはもともと別の二つの物語を一つにしたのでしょうか。それは、異なる教会の伝承を一つにまとめて、バランスを取ろうとしたからだと考えられます。
前半はユダヤ教の伝統の枠内で隣人愛を語っています。しかし後半では、ユダヤ教の枠組みを少し越えて、「愛は宗教儀式よりも大切である」という視点が語られています。ユダヤ教では、神への愛が第一戒、隣人愛は第二戒です。神様一番、隣人二番。この順序はとても大切です。

しかし主イエスは、この二つを一つにまとめて、神様と隣人への愛はどちらも一番大切だと教えられました。これは少し意外ですが、ユダヤ教の枠組みから完全に外れているわけではありません。実際、ラビ・アキバやアレクサンドリアのフィロンといったユダヤ人の学者も、隣人愛を非常に重要な戒めとして語っていました。

ところが後半になると、「愛は宗教儀式よりも大切だ」という主張が現れます。これはユダヤ教の枠組みからすると、かなり大胆な言葉です。そこで考えられるのは、この後半の伝承は、ギリシャ語を話すユダヤ人、あるいはギリシャ文化圏の教会から来たものではないかということです。ギリシャ文化では「知恵」が重視され、ユダヤの祭儀は相対化される傾向がありました。つまりマルコは、ユダヤの伝統とギリシャ系教会の伝統、この二つの視点を一つの物語の中にまとめたのです。

ルカ福音書
ではルカ福音書で隣人愛はどのように教えられるのでしょうか。実はルカは、マルコよりもさらに強く、隣人愛の問題を語っています。

ルカでは律法学者の質問がこう変わります。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか。」
マルコでは「どの掟が一番重要か」という順位の問題でした。
しかしルカでは、「何をしたらよいのか」という具体的な行いが問題になっています。
そしてこの問いのあとに語られるのが、有名な「よきサマリア人のたとえ」です。

ある人が強盗に襲われ、半殺しにされて倒れていました。
そこへ祭司が通りかかります。しかし道の反対側を通って行きました。レビ人も同じです。最後に通りかかったのがサマリア人でした。彼は倒れている人を見ると、すぐに駆け寄り、応急処置をし、宿屋に連れて行き、費用まで支払いました。

そしてイエスは問われます。
「誰がこの人の隣人になったか。」答えは明らかです。助けた人です。

この話を現代に置き換えてみると、ルカのメッセージはさらによく分かります。
例えば、「よきサマリア人」を「よきパレスチナ人」に置き換えてみたらどうでしょうか。
ルカがここで何を伝えたいのか、よくわかるのではないでしょうか。

次になぜ祭司やレビ人は、倒れている人を助けなかったのでしょうか。
祭司やレビ人である彼らは、神殿で宗教儀礼を行う者として、普段から自分の身を清く保たなければなりませんでした。そのため彼らは清浄規定を守る必要がありました。
この規定の中でも特に重要なのが、祭司は血に触れてはならない、という戒めです。
もし祭司が倒れている人に近づいて、「大丈夫ですか」と体を揺さぶったとしましょう。その人はすでに血を流して倒れているわけですから、祭司は血に触れてしまう可能性があります。それは宗教的なタブーを犯すことになります。さらに最悪の場合、その人がすでに死んでいたとしたらどうでしょうか。血や死体に触れることは、祭司やレビ人にとって重大な宗教的タブーでした。ですから彼らは、見て見ぬふりをして通り過ぎていったのです。

しかしここで思い出していただきたいのが、先ほど読んだマルコ福音書の後半の部分です。マルコの後半では、「愛は宗教儀式よりも大切である」と教えられていました。

つまりルカ福音書は、このマルコ後半のテーマを引き継いでいるのです。
祭司やレビ人は、自分たちの戒律や宗教儀礼を守ることを大切にするあまり、目の前で倒れている人さえ助けようとしなかった。ルカはその姿を通して、宗教のあり方を鋭く問いかけています。
ユダヤ教の指導者たちは、清浄規定を守ることには熱心であった。しかし隣人愛を実践していないのではないか。それで本当に神の望まれる宗教の姿と言えるのか。ルカはそのことを厳しく問いかけているのです。

最後に、この「よきサマリア人」のたとえをもう少し現代の出来事に置き換えてみたいと思います。例えば、ある地域で戦争が始まり、戦争の被害で傷つき倒れている人がいるとします。もし倒れている人が、がれきの下敷きになっているのだとしたら、あなたは国籍を確かめて、その人をたすけるかどうか考えるのかと、この物語は問うているのです。
よきサマリア人の譬えが突きつけているのは、まさにそうした問題です。宗教でも、国家でも、イデオロギーでもない。目の前に倒れている人を見て、「この人は私の隣人だ」と言えるかどうかです。どころが人間というのは、戦争になると、急に祭司やレビ人のように通り過ぎてしまいます。神様がそんな状況を見ておられれば、あなたがたには「隣人を愛せ」と言ったはずだ。「よきサマリア人はどこにいるのか」と厳しく問われることでしょう。

主イエスはこのたとえ話の最後にこう言われました。
「行って、あなたも同じことをしなさい」
難しいことのように思われるかもしれませんが、福音はとても単純なのです。目の前にいる人を隣人として見て、その人に手を差し伸べること、それが私たちに求められていることなのです。お祈りいたしましょう。

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