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「わたしの主、わたしの神よ」

ヨハネ福音書20章にはキリストの復活を信じられないディディモと呼ばれるトマスの姿が記されています。他の弟子たちは喜びで口々に「わたしたちは主を見た」と言うのですが、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と

復活のイエスを信じる

キリスト教会にとって三つの大切な祝日があります。クリスマス(降誕)、イースター(復活)、ペンテコステ(聖霊降臨)です。この中で最も早くから祝われたのはイースターです。福音書で最初に書かれたマルコ福音書には主イエスの受難と復活の記事はありますが、クリスマスの記事がありません。クリスマスマルコ福音書後の

イエスは主である

使徒パウロはローマの信徒への手紙10章9節で次のように言っています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」「イエスは主である」とはどういう意味でしょうか。ベンゲルは「信仰と救いの全体がこの称号の中にある」と言いま

今日の聖書の言葉です

「それゆえイスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたがたを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたがたを贖う」(出エジプト記6:6)神は人々が不当な苦しみに置かれていることを喜ばれません。神は「導き出す」「救い出す」「贖う

「わたしを導かれた牧者なる神よ」

創世記には生き生きとした人間の姿が描かれていて興味の尽きない文書です。第三代の族長ヤコブは晩年にヨセフの二人の子どもマナセとエフライムを祝福しました。その様子が創世記48:12~16に記されています。ヨセフは長男であるマナセがヤコブの右手に来るように、エフライムが左手に来るように配置しました。し

イエスにお目にかかりたいのです

ヨハネ福音書12:20以降には、主イエスに会いにギリシャ人が来たという話が記されています。時は過越祭の最中、エルサレム神殿は各地からやって来た人々で溢れていました。その中にこの人々もいたのです。彼らはおそらくユダヤ教に改宗していた人々であり、主イエスに深い関心を寄せていました。彼らが過越祭にやっ

しかし勇気を出しなさい

ヨハネ福音書1~12章は民衆に対する主イエスの教えであり、13章以降は弟子たちに対する教えです。「イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)。特に14~16章は後に残していく弟子たちへの配慮に満ちた言葉が二回記

わたしは羊の門である

ヨハネ福音書1~12章は人々に対する主イエスの啓示、13~17、20~21章は弟子たちに対する啓示です。神学者G・タイセンは、それぞれに「段階解釈学」が見られる、つまり主の言葉によって低い段階からより高い段階へと育っていくと言うのです。ヨハネ福音書は他の福音書同様イエスのことを「キリスト」「神の

思い煩うのはやめなさい

フィリピの信徒への手紙は使徒パウロが紀元54四年頃エフェソの獄中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙です。厳しい状況に置かれながらパウロは繰り返し「喜びなさい」(2:18、3:1、4:4:4)と兄弟姉妹を励ますのです。また次のようにも勧めています。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につ

2月8日のことば

「あの町に正しい者が50人いるとしても・・・お赦しにならないのですか」(創世記18:24)罪に満ちたソドムの滅びを予告された神に、アブラハムは50人、45人、40人、30人、20人、10人と執拗に交渉します。神は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と言われ、ついに甥のロト一家は救い出されるので

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