きえて のこった
「きえて のこった」(長崎かぞえ歌) しのはら・ちひとつめ きえたまぶしい光で 青空が きえて・・・きのこ雲が 残ったふたつめ きえた街が きえて・・・瓦礫が のこったみっつめ きえたなかよしが きえて・・・焦げが のこったよっつめ きえたコロも ミケも きえて・・・
「きえて のこった」(長崎かぞえ歌) しのはら・ちひとつめ きえたまぶしい光で 青空が きえて・・・きのこ雲が 残ったふたつめ きえた街が きえて・・・瓦礫が のこったみっつめ きえたなかよしが きえて・・・焦げが のこったよっつめ きえたコロも ミケも きえて・・・
詩編133:1の御言葉は有名です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」口語訳では「見よ、兄弟が和合して共におる」となっており、岩波訳では「兄弟がいっしょに住む」となっています。若い頃この箇所について英語の注解者を読んだ時、これを「クールでフレッシュな交わり」と説明して
山北宣久先生の『それゆけ伝道 元気の出るエッセイ』を読みました。確かに題名のとおり元気が出ます。その中に「アメリカの教会の実情レポート」が載っていました。100名の教会員について言うと、そのうち5名は行方不明であり、20名はまったく祈らず、25名はひとつも聖書を読まない。30名は全く教会に出席せ
御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。…しかし主よ、あなたは彼らを笑い/国々をすべて嘲笑っておられます。(詩編59:8~9)「彼らの口は剣を吐く」、それは「人を滅ぼすための言葉(偽証や呪詛)」のことです。しかしこの世の権力者がどんな恐ろしい言葉を吐こうと、まことの主権者である神は「嘲笑っておられる
7月13日(日)まで福岡市美術館で第四五回日展が開催されており、彫刻家片山博詞先生(バイブルチャーチ福岡会員)が「ひざまづくひと」を出品しておられます。先生はこの作品の制作意図を次のように記しておられます。ひとは 絶望の淵にひざまづくひとは 希望を求めてひざまづくひとは 感謝の祈りにひざまづ
ルカ8章には「種を蒔く人」の譬え話があります。農夫が蒔いた種は4種類の地―道端、石地、いばらの地、良い地―に落ちたのです。種は神の言葉を意味し、落ちた地は聞く者の心、そこで人は、今心の状態は4つのどれだろうかと吟味し、良い畑の状態になりたいと努力するのです。この読み方が間違っているとは思いません。道
主イエスはご自身の働きのためにどのような人を召されるのでしょうか。ペトロたちは漁師であることに誇りを持っていました。ガリラヤ湖に出て毎日網を打つことは大きな喜びであり、大漁の網を引き上げる彼らの顔には自信が溢れていました。主イエスが目を留められたのはそのような人々でした。「わたしについてきなさい。人
使徒信条第3項は聖霊に関するものであり、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」となっています。日本バプテスト連盟信仰宣言(1979年)には「聖霊はイエス・キリストのすべてのわざを私たちの内に直接証し、信仰の実を結ばせ、私たちを神の栄光へと
ヴィルヘルム・ミューズが編集した『感謝についての100の言葉』という本があります。その中から心に残る言葉をいくつかご紹介したいと思います。・感謝の思いは、心に刻まれた記念碑。(ジャン・バプティスト・マション)・私たちは過ぎ去った美しいものを、静かに貴重な贈り物のように心に抱いている。(ディ