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「嘆きから賛美へ」

 かつて深い悲しみにあった人が、今大きな喜びの中にあるなら、私たちは、「かつて」と「今」の間できっと何か素晴らしい出来事を経験したに違いないと考えるのではないでしょうか。 ルカ福音書24章13節以降に記されているクレオパともう一人の弟子は「暗い顔」をしてエマオに向かっていたのです。その彼らの心が

「起き上がり小法師」

 キリスト教書評誌「本のひろば」に『起き上がり小法師』という絵本が紹介されていました。「こぼし」はこういう字を書くのだと初めて知り、読んでみたいと思いました。 自転車事故に遭い頭部外傷をうけた作者は、生死の境をさまよい、やがて目が覚めたのですが、話そうとしても言葉にならず、手を動かそうとしても動

巻頭言「聖なる神殿となる」

 使徒パウロは教会を「聖なる神殿」(エフェソ2:21)と呼んでいます。この言葉に出会う時、私はサグラダ・ファミリア贖罪教会の二代目建築家アントニオ・ガウディの次の言葉を思い出すのです。私はこの《聖堂》を完成させることができないことは、悲しむべきことではない。私は年齢を重 ねていく。代わって、この

巻頭言「イエス、焼き魚を食べる」

 福音書を読んでいて、主イエスのユーモアに出会い思わずにっこりしたくなる箇所があります。例えばマタイ17:24~27。エルサレム神殿に献げるお金はシケル銀貨と決まっていましたが、それについて弟子たちが問うた時、主イエスは次のように言われました。  湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って

巻頭言「十字架と復活は私たちの信仰の中核」

 主イエスの十字架という出来事は、当時の人々にとっては呪いであり、無力であり、愚かなものでした。しかし使徒パウロにとっては、神の知恵であり、救いであり、誇りだったのです。 主イエスの復活はどうでしょうか。パウロがアテネの人々にイエスの復活を告げた時、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては

巻頭言「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

 十字架上で主イエスの口から洩れた言葉は七つ、その一つが「エロイ、エロ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)です。マタイ27:46では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」となっています。だから十字架の傍にいた人々は、「エロイ」「エリ」という言葉を聞いて預言者エリヤの助けを求めていると思ったのです。

巻頭言「神の愛と人の罪」2021.3.21

    讃美歌21-300番の歌詞に心を惹かれます。  十字架の上に われはあおぐ、わがため悩める 神のみ子を。  たえにも貴き 神の愛よ、はかりも知られぬ 人の罪よ。 神学者アリスター・マクグラスは、十字架はレンズのようだと言います。それは人間のどうしようもない罪を明らかにすると同時に

「真理と自由」

 ヨハネ福音書を読むと、「わたしは…である」という特徴的な言葉が度々出てきます。神学者ゲルト・タイセンは『新約聖書 歴史・文学・宗教』の中で、ヨハネ福音書は「キリスト」や「神の子」のような伝統的な尊称だけではイエスの偉大さを表すことができないと考え、「わたしは…である」と言う言葉を使った。例えば「わ

巻頭言「信仰が芽生える場」

 人はどのようにして信仰を持つに至るのでしょうか。宇宙の神秘や自然界の美しさを通してという方もいるでしょう。音楽や文学や美術を通してという方もいるでしょう。いずれも貴い導きですが、より多くの人は次の三つの道を通して信仰に至るのではないでしょうか。第一は聖書を読むことによって、第二はキリスト教の使信を

「キリストの磔刑と復活」

 マティアス・グリューネヴァルトは16世紀の画家です。彼の祭壇画「キリストの磔刑」は聖アントニウス修道院に置かれていました。そこには見るに堪えないほど苦しむキリストの姿が描かれており、側に立つバプテスマのヨハネがキリストを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」「あの方は栄え、わたしは衰えねばな

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