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「聖書は少し難しいが、役に立つ」

評論家立花隆氏の『ぼくの血となり肉となった500冊』という本があります。その中に「ぼくの血肉のうちのひとつに『聖書』が入っているのは間違いないでしょうね。ぼくは聖書を、それこそ中学生ぐらいのときからものすごく熱心に読んでいるんです」とありました。フリージャーナリスト池上彰氏の『世界を変えた10冊

「イエス・キリストの復活の意味」

今日はキリストの復活を祝うイースターです。復活は私たちの理性と真正面から対立することではないでしょうか。しかしそれは現代の私たちに限ったことではなく、弟子たちの時代においても同様だったのです。使徒言行録17:16以降には、使徒パウロが哲学の町アテネでイエスの十字架と復活について話した時のことが記

「イエスは教えられた」

マタイ福音書では主イエスの説教が5つのブロックにまとめられています。5~7章は山上の説教、10章は派遣の説教、13章は天国の説教、18章は教会についての説教、24~25章は終末についての説教です。それぞれの説教の間には主イエスの行為が記されています。ちょうど説教と行為がサンドイッチ状態になって、

「一を知って」

高浜虚子に次のような俳句があります。「一を知って二を知らぬなり卒業す」「一を知って十を知る」「一を知って万を知る」という言葉もあります。そうであればいいなとも思いますが、一つ学んで一つ知る、それに続く二、三はまだ知らないというほうが謙遜であり、また学ぶ楽しみもあるのではないでしょうか。学問の知識

祈りと喜び

ルカ福音書11:1に「イエスはある所で祈っておられた」と記されています。特定の場所を記してはいません。それは主イエスがしばしばどこででも祈っておられたからに違いありません。祈りは主イエスの日常だったのです。祈った後の主の表情は澄み渡った青空のようだったのではないでしょうか。主の姿は弟子たちの心の

救いを受けしはみ恵みなりき

私はクリスチャン三代目になります。初穂である祖父母がどのようにして主キリストへの信仰に導かれたのか、この信仰がどのようにして家族に伝わったのか、さらに父がどういう仕方で信仰へ、そして牧師へと導かれたのか、また私自身のこと、長男の献身について一連の流れとして考えてみました。この機会に父の入信と献身

「いつまでも残るだろうか?」

使徒パウロはⅠコリント13:13で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と記しました。それはパウロにとってキリスト教信仰の基本的要素でした。Ⅰテサロニケ1:3、ローマ5:1~5でもこの三つの言葉を記しています。しかし現代人の多くが、パウロのこの考えに果たして同意するでしょうか。信仰は

「わたしたちの主イエス・キリスト」

「ローマの信徒への手紙」はパウロが紀元55~56年頃コリントに滞在中ローマのキリスト者に宛てて書いたものです。手紙と言いながら、その論理の展開などは神学論文のようです。ガラテヤの信徒への手紙が普遍的キリスト教の大憲章とすれば、ローマの信徒への手紙はその憲法だとも言われています。ローマの信徒への手

われらバプテスト

バプテスト教派の特徴の一つは聖書主義です。何を信じ、どう生きるのかを聖書から学ぶのです。主イエスは聖書についてヨハネ5:39でこう言っておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」私たちは聖書を通して主イエス・キ

「神の愛を伝えたい」

人生には親の愛を重苦しいと感じる時期があります。しかしそれを過ぎると、親の愛をかけがえのない宝のように実感するのです。神の愛も同じではないでしょうか。神は存在しない、存在したとしても私には関係ないと言っていた人が、やがて神の愛を有難いと感じる時がくる、そういう変化が起きるのも人生でしょう。ルカ福

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