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巻頭言「主に召された者として」

 私が献身について初めて考えたのは中学1年の時でした。それは憧れに似たものだったと思います。大人になって真剣に考えたのは大学2年の時でした。牧師であった父は、聖書の中に記されているモーセ、イザヤ、エレミヤ、そしてペトロやパウロなどの召命を読み、祈りつつ考えるようにと助言してくれました。この働きが決し

巻頭言「分かるということ」

 主イエスは多くのたとえを用いてお教えになり、こう尋ねられました。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。それに対して弟子たちは「分かりました」と答えました(マタイ3:51)。弟子たちの心には福音の真理が分かった喜びが溢れていたのではないでしょうか。「分かる」ということは大きな喜びなのです。

巻頭言「立ち上がって神の国を建設しよう」

 主イエスの福音宣教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉で始まりました。「天の国」(神の国)とは死後の世界のことでしょうか。今生きている世界の混乱を放置し、私たちの関心を来世へと移そうとされたのでしょうか。 いいえ、神は私たちが生きているこの世界が無秩序のままでよいとは思われないでしょう

巻頭言「主イエス・キリストを伝えよう」

 福音宣教は主イエス・キリストから教会に託された大切な務めです。「伝道とは、他の問題に対処した後でゆとりがあれば行う、付け足しのようなものではない。むしろ教会の中心的なもの、教会のいのちを形作り、原動力となるものと見なすべきだ」(N・T・ライト『驚くべき希望』)。 新型コロナウイルス感染禍にあり

巻頭言「キリストと結ばれる人はだれでも」

 コリントの信徒への手紙Ⅱはパウロが紀元54年頃、エフェソで書いた手紙です。特に5:17は多くの人に愛唱されている有名な言葉です。  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。   古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 パウロは十字架のキリストを救い主と信じ

「嘆きから賛美へ」

 かつて深い悲しみにあった人が、今大きな喜びの中にあるなら、私たちは、「かつて」と「今」の間できっと何か素晴らしい出来事を経験したに違いないと考えるのではないでしょうか。 ルカ福音書24章13節以降に記されているクレオパともう一人の弟子は「暗い顔」をしてエマオに向かっていたのです。その彼らの心が

「起き上がり小法師」

 キリスト教書評誌「本のひろば」に『起き上がり小法師』という絵本が紹介されていました。「こぼし」はこういう字を書くのだと初めて知り、読んでみたいと思いました。 自転車事故に遭い頭部外傷をうけた作者は、生死の境をさまよい、やがて目が覚めたのですが、話そうとしても言葉にならず、手を動かそうとしても動

巻頭言「聖なる神殿となる」

 使徒パウロは教会を「聖なる神殿」(エフェソ2:21)と呼んでいます。この言葉に出会う時、私はサグラダ・ファミリア贖罪教会の二代目建築家アントニオ・ガウディの次の言葉を思い出すのです。私はこの《聖堂》を完成させることができないことは、悲しむべきことではない。私は年齢を重 ねていく。代わって、この

巻頭言「イエス、焼き魚を食べる」

 福音書を読んでいて、主イエスのユーモアに出会い思わずにっこりしたくなる箇所があります。例えばマタイ17:24~27。エルサレム神殿に献げるお金はシケル銀貨と決まっていましたが、それについて弟子たちが問うた時、主イエスは次のように言われました。  湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って

巻頭言「十字架と復活は私たちの信仰の中核」

 主イエスの十字架という出来事は、当時の人々にとっては呪いであり、無力であり、愚かなものでした。しかし使徒パウロにとっては、神の知恵であり、救いであり、誇りだったのです。 主イエスの復活はどうでしょうか。パウロがアテネの人々にイエスの復活を告げた時、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては

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