4月24日のみことば

「あなたを畏れる人、あなたの定めを知る人が/わたしのもとに立ち帰りますように」(詩編119:79)

詩人は神を畏敬し、喜んで神の言葉に生きる人を私に送ってくださいと祈ります。詩人は神の恵みを証ししたい、恵みを分かち合いたいのです。信仰は救いの事実を聞くことによって始まり、恵みを証することによって育つからです。D.ボンヘッファーが言うように、私たちにこのような交わりが与えられていることは、実に大いなる恵みなのです。

4月23日のみことば

「主よ、あなたの裁きが正しいことを/わたしは知っています。わたしを苦しめられたのは/あなたのまことのゆえです」(詩編119:75)

詩人は神の裁き、判断、考えが正しいことを認めています。反対に、自分の考えや判断がしばしば間違っていることをも認めているのです。事がうまく運ばない時、彼は静かに祈り始め、動機や行動の仕方を吟味するのです。そして自分の過ちに築き、神のお考えを感謝し、しなやかに軌道を修正したのです。そしてそこから始まる祝福を体験したのです。

4月22日のみことば

「御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください」(詩編119:58)

詩人は祈りをとても大切にしています。カルヴァンは「祈りを抜きにしては信仰はなすところはなく、眠ったようになるからである」と言います。私たちが今日も祈りを捧げるのは、神こそが真の希望の根拠であるからであり、神は祈る者に対し確かに慈しみ深くあられるからです。祝された生涯のために必要不可欠なもの、それは日々の祈りの修練です。

4月20日のみことば

「神に逆らう者に対する燃える怒りが/わたしを捕えています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です」(詩編119:53)

カルヴァンは、これは神の言葉を軽視する人たちへの「聖なる憤激の念」と言います。私たちの大切な人が悪しざまに言われる時、心は痛まないでしょうか。何も感じないなら、私たちは本当には愛していないのです。詩人のこの怒りは、一方では神の言葉への愛の表われであり、他方では神を軽視する人にも気づいてほしいという思いの表われなのです。

4月19日のみことば

「あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い/主よ、わたしは力づけられます」(詩編119:52)

「あなたの裁き」とは神の言葉、「堪える」とは「外部から加えられる強い力や作用に対しても、屈したり影響を受けたりせず、抵抗する力をもつ」という意味。いいえ、聖書の言葉はさらに悪しき力を駆逐し、生活を整え、祝福で満たす力を持っています。だから詩人は「わたしは力づけられます」と言うのです。今朝も神の言葉があなたを励ましますように。

4月18日のみことば

「わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます」(詩編119:42)

この御言葉に出会うと、私は十字架上の主イエスを思い出します。ユダヤの議員たち、ローマ兵たち、群衆、そして一緒に十字架に架けられた犯罪人の一人さえ主イエスを罵るのです。「神の子メシアであれば自分を救え。我々も救え」と。そんな中で主の口から洩れる静かな祈り「父よ、彼らをお赦しください」。そこには神への信頼と人への愛があります。

4月17日のみことば

「わたしの恐れる辱めが/わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます」(詩編119:39)

この言葉を読むと、私は十字架の苦しみを受けた主イエスを思わずにはいられません。主は全ての人の罪を負い、完全に罪人として十字架上に苦しまれました。この「辱め」の中で主は「善い裁き」をなさる父なる神に一切を委ねておられました。私たちも不当な苦しみを受ける時、主に倣ってそうしたいと思います。そこにこそ真の慰めがありますから。

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