8月12日のみことば

「ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう』と言い、更に、『お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓ったのである」(マルコ6:22~23)

ヘロデ王は自分の力を誇示すべく娘サロメに「なんでも与えよう」と言い、娘は母ヘロディアにそそのかされてヨハネの命を求めたのです。人間の罪の根深さと傲慢がもたらす不幸を痛感します。私たちは神ではなく人間であることを思い、慎ましく生きたいと願います。

 

8月11日のみことば

「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(マルコ6:14

イエスとは誰? 人々は、預言者エリヤ、預言者の一人、ヘロデ王が殺害した洗礼者ヨハネが生き返ったのだと思ったのです。実は当のヘロデもそう思って恐れたのです。では私たちにとってはどのような方でしょう。マルコ福音書の著者は冒頭で答えています。「神の子イエス・キリストの福音」。イエスは私たちに真の救いをもたらす神の子キリストなのです。

 

8月10日のみことば

「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(マルコ6:11)

心を込めて福音を語る、しかし聞いてくれない、信じようとしない、なんだか腹が立つ…。そんな時このみ言葉が心に浮かび、足の裏の埃を払い落とそうとします。しかしふと傍らを見ると、主はまだ畑を耕し種を蒔いておられる…。主の忍耐と愛に比べると私のそれは小さく弱い。今は足の埃を払い落す時ではなく、愛と忍耐をもって福音を語り続ける時なのです。

 

8月9日のみことば

「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(マルコ6:79

主イエスが弟子たちに託された使命は福音宣教。そのために最も必要なのはお金や物ではなく、父なる神への信頼です。私たちはしばしば「あれが足りない」「これも足りない」「働き人がいない」と言いますが、本当に足りないのは信仰です。主よ、信仰を増してください!

 

8月8日のみことば

「そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(マルコ6:67)

故郷ナザレの人々の不信仰に驚かれた主イエス。しかしそれは主イエスの福音宣教への思いを妨げるどころか、一層燃え立たせることとなったのです。ご自身付近の村々を巡り歩いて福音を宣教され、さらに弟子たちをも派遣されたのです。私たちの心にある大切な願いを妨げるような問題に直面するかもしれません。しかし神の力は私たちの心を燃え立たせます。

 

8月7日のみことば

「その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」(マルコ6:55)

これはゲネサレト地方での出来事。宮平望先生の注解書で目を開かれました。「この地方は、オリーブ、いちじく、ぶどうなどの産物で知られる食糧事情の良い場所であったが、病人をいやすためにはイエスの力が必要だった…」。現代も似ています。必要なものは何でもある、ただ一つ主イエスとその言葉を除いて。私たちの生活に主が今日もいてくださいますように。

 

8月6日のみことば

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6:5~6)

主イエスの力は驚くばかりです。ガリラヤ湖の嵐を静め、病人を癒されます。しかし主のそのような力を封じるものがあります。不信仰です。主はナザレの人々の不信仰に驚かれましたが、現代人の不信仰にはもっと驚かれることでしょう。しかし主は「からし種一粒ほどの信仰があれば…」(マタイ17:20)と言われます。一粒の信仰を求めましょう。