6月10日のみことば

「主はすべてのものに恵み深く/その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。」(詩編145:9)

真面目に働き蓄えた老後の資金を狙う詐欺。近隣の散歩道にも老人たちに注意を促す看板が出ています。嫌な世の中ですね。皆さん賢く行動しましょう。でも今日のみ言葉のように、父なる神の善意にだけはしっかり信頼したいと思います。「主を畏れる人々よ、善い賜物に/永遠の喜びと憐れみに希望を置け。/主の報いは/喜びを伴う永遠の賜物だからである。」「我々は人の手にではなく/主の御手に身を委ねよう。/主の憐れみは/その偉大さに劣らず大きいのだから。」(外典シラ書2:9、18)。

 

6月9日のみことば

「憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5:7

マタイ20:30~34に目の不自由な二人の人が「主よ、私たちを憐れんでください」と大声で叫び、主イエスが彼らの目に優しく触れて癒されたことが記されています。彼らの叫びは「キュリエ・エレエーソン」(主よ、憐れんでください)、「憐れみ深い人々」という時も同じ言葉「エレオス」。つまり主の憐れみと同じ憐れみで対応する人、もちろん主ほどの大きな憐れみではないでしょうが、小さくても憐れみの心をもって行動する人は「幸い」だと教えるのです。やがてその人自身、主イエスと父なる神から大きな憐れみを受けると言うのです。

6月8日のみことば

「イエスは言われた。『私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」(ヨハネ4:34)

今日の聖句を見ると、父なる神の御心にかなった働きに着手しそれを成し遂げること、それはちょうど食事と同じような満足を御子イエス様にもたらしていたようです。私たちもその喜びを経験したいです。毎朝食事が終わると「さあ、今日も自分の務めを果たそう」と思い、昼の食事を頂くと少し眠気に見舞われ、夕食後には今日一日の恵みを思い出して感謝でいっぱいになる、そんな今日でありたいですね。

6月7日のみことば

「朝に、あなたの慈しみを聞かせてください/私はあなたに信頼しています。歩むべき道を知らせてください。私はあなたに向かって魂を高く上げます。」(詩編143:8)

世間を騒がせる事件が頻発。「猟銃立てこもり男逮捕」、死者は4人。警官2人と散歩仲間の女性2人。「被害女性に悪口を言われたと思って殺した」。私も妻と西南の杜湖畔公園を散歩しますが、途中の会話は楽しいもの。結婚以来すっと犬を飼ったこと、小さかった子どもたちの数々の思い出、これからの計画…。楽しくて仕方がありません。他人の目や言葉にふり回されて被害妄想に陥ることなく、聖書の言葉に耳を傾けたらどうでしょうか…。

6月6日のみことば

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」(エフェソ4:2)

ある方の本に、私たちの日々の生活には少しでも柔和になるチャンスが必ず与えられていると書いてありました。病院やスーパーなどで若い人たちが年老いた人にぞんざいな対応をしているのを見ることがあります。私だったら不愉快だし憤慨するだろうと思う時でも、その方は「どうもありがとう」と丁寧に会釈している…、なんて柔和な人なんだろう、人生の達人だなと思います。日常の会話に中に溢れている悪口、侮辱、自分の提案が受け入れられなくても、静かに穏やかに対応したいと思います。

6月5日のみことば

「主を畏れ、謙遜であれば/富と誉れと命が付いて来る。」(箴言22:4)

人間の知恵や力には限りがあるのに、あまりにも自分を過信する人を見ると、他人事ながら心配になります。今日のみ言葉には「主を畏れ」とあり、箴言9:10には「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別」とあります。限界を自覚し、神とともに生きて行く姿こそ人間らしいと思います。箴言を著した知恵の教師は「謙遜であれば、富と誉れと命が付いて来る」と教えます。そっと自分の後ろを振り返ってみてはいかがでしょうか。

6月4日のみことば

「正しき者は地を受け継ぎ/いつまでもその地に住む。」(詩編37:29)

詩編37編には「地を受け継ぐ」という言葉が繰り返し出てきます(9、11、22、29節)。詩人は正しく生きたいと望んでおり、それゆえ苦しんでいるのです。しかし彼は主に望みをかけ続け、それゆえ確かに祝福されたのです。この言葉を味わっていると、主イエスの山上の説教と共鳴するように思えます。「へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)。(今週も聖書協会共同訳を用いています)

TOP