4月6日のみことば

「人に惑わされないように気をつけなさい」(マルコ13:5)

マルコ13章は「小黙示録」と言われる箇所で、終末の徴について記しています。戦争や地震や飢饉など様々な人災や天災が起こった時、人々は世の終わりだと言って慌てふためきました。しかし主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われました。危機的状況であればあるほど、神に信頼して落ち着き、心を込めて福音を伝えたいと思います。それが人生の真の土台なのですから。

4月5日のみことば

「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコ13:2)

弟子たちはエルサレム神殿の壮麗さに感動、その堅固さゆえに神殿の永遠不滅を確信しました。しかし主イエスは間近に迫っているエルサレム神殿の崩壊を見ておられました。紀元70年のユダヤ戦争でローマ帝国はこの神殿を完全に破壊しました。人の目に堅固に見えるもの、しかし神の目には脆いものでしかないのです。神の愛こそ真に堅固な私たちの土台です。

4月4日のみことば

「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか』」(マルコ12:37)

当時律法学者たちは「メシアはダビデの子孫から起こる」と信じ主張していました。「ダビデの子」と言う時、「子」であるメシアより「先祖」であるダビデの方が偉大だという気持ちがあります。しかし神から直接遣わされたメシア、即ちご自分はダビデをはるかに越える存在であると言われたのです。それは遣わされた神の偉大さに根拠を置く主張だったのです。

4月3日のみことば

「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:31)

主イエスは第一の掟として神を全身全霊で愛することを示し、第二の掟として隣人を自分のように愛しなさいと言われました。第二の掟はレビ記19:18の引用。隣人を自分のように愛することは難しい課題です。しかし私はいつもU字の試験管を考えています。一方に水を注げば、反対も同じ高さまで水が上がってきます。隣人愛もそうありたいと祈っています。

4月2日のみことば

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(マルコ12:29~30)

律法学者の質問「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」に対する主イエスの答がこれ。「第一」を第二、第三にしてはいけません。主は他の箇所では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。今週残りの日々、そのように歩んでみましょう。

4月1日のみことば

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マルコ12:26~27)

当時のユダヤ教の一派・サドカイ派は復活を信じてはいませんでした。それに対し主イエスは主エジプト記3:6の御言葉を用いて答えられました。主は、「である」という現在形に注目し、神は昔アブラハムの神であっただけではなく、今まさにこの時もアブラハムの神、つまりアブラハムは復活して神との生き生きとした交わりにあるのだと言われたのです。

3月31日のみことば

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)

ファリサイ派とヘロデ派の数人がイエスの言葉じりをとらえるために巧みに仕組んだ質問「皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。「納めよ」と言えば「神を軽んじている」と言い、「納めるな」と言えば「ローマ皇帝に背く者」となります。しかし主はそれらを超えて「神のものは神に返しなさい」と言われるのです。神のものでないものなどあるでしょうか。私の命も家族も富も皆神から頂いた恵みなのですから。