1月18日のみことば

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(マルコ2:19)

「婚礼の客」とは「花婿の友人や客」のことであり、彼らは「婚礼の準備を手伝い、式の開始と共に喜びで満たされる」のです。花婿は主イエス、私たちは「婚礼の客」です。私たちの務めは花婿である主イエスを心から喜ぶことであり、喜びの場を準備し、喜びの維持拡大のために働くことです。「陰気な顔つきはクリスチャンには相応しくない」(スポルジョン)。

1月17日のみことば

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)

これは主イエスが言われた言葉です。病気の自覚がなければ人は医者には行きません。同様に、自分は神と人に対して「欠けている者」「不完全な者」であるという自覚がない人、即ち、自分は完璧だと思い込んでいる人には、神の愛や赦しは不要に思えることでしょう。でも、体にも心にも弱さがあるという内的自覚、これは人間としての気品だと私は思うのです。

1月16日のみことば

「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(マルコ2:14)

主イエスが見かけたのは、レビが収税所に座っている姿でした。「座っている」という言葉から私たちは何を連想するでしょうか。安定した生活でしょう。しかしレビの心には喜びや充実感があったでしょうか。そんな彼に主イエスは「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのです。それは新しい喜びの人生への招きでした。主は私たちをも招いておられます。

1月15日のみことば

「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(マルコ2:3~4)

この病人は良い友を持ちました。どうしても健やかになってもらいたくて主イエス様のもとに連れてきたのです。長い間無牧師だったある教会の四人の執事たち、この記事に励まされ約束し合ったそうです。「私たち四人もあの人々のように主の教会を守り続けよう」と。

1月14日のみことば

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(マルコ1:41~42)

「重い皮膚病」。適切な治療法がなかった時代ですからから、医学的にも社会的にも宗教的にも恐れられた病です。「健やかになりたい!」 それは病人の切実な願いでした。主イエスは彼を深く憐れまれます。ギリシャ語ではスプランクニゾマイ、はらわたが揺さぶられるような憐れみです。そして癒されたのです。主は今も病む人の苦しみに共感なさるお方です。

1月13日のみことば

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」(マルコ1:36~38)

今日の聖句で特に心に響くのは「みんなが捜しています」という言葉です。人々は真の救いを真剣に捜し求めているのです。主イエスは彼らのもとに「行こう」と言われました。現代の教会もその求めに応える必要があります。主は福音宣教のために「行こう」と促されます。

1月12日のみことば

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った」(マルコ1:36~37)

「イエスの後を追い」とあります。これは「探して後を追う」「追跡して追いつく」という意味です。弟子とはそういうものではないでしょうか。生き方も学びも師の後を必死になって追うのです。私はしばしば「自分はどうだろう?」と思います。主イエスより先走ったり、お姿を見失うほど遅れたり…。今年は心を込めて「イエスの後を追う」年にしたいです。

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