4月21日のみことば

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ローマ8:35)

『ハイデルベルグ信仰問答』冒頭の問答、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問い、それに対して「体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実の救い主イエス・キリストのものであることです」と答えています。私は私の所有ではなく、主の御手にある存在なのです。このことを心の隅々にまで言い聞かせたいと願います。

 

4月20日のみことば

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(Ⅱコリント1:3)

私たちの世界にはどうしてこうも悲しみや苦しみが多いのでしょうか。ある方が言うように、死や悲しみのリズムや調べが満ち溢れています。しかし心の耳を澄ましてください。そんな中で慰めの調べも響いているのではないでしょうか。それは神が奏でておられる慰めの調べです。神は、私はあなたと共にいる、決して見捨てたりはしない、きっと救うと言われます。

4月19日のみことば

「主よ、哀れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます」(詩編6:3)

聖書は神を信じる人には悩みや苦しみがないとは言いません。神を信じるにも関わらず、孤独や沈黙や恐怖に陥ることがあるのです。しかしある方は、「私たちは神を知らぬ者のようにではなく、神の民として嘆くのだ」と言っています。赤ちゃんが母親の胸で泣くように、私たちは愛の神の御腕の中で苦しみを訴え、時に泣き、助けを求めるのです。神がそれをしっかり受け止めてくださったゆえに、私たちの心には本当の安らぎと救いの希望が生じてくるのです。

4月18日のみことば

「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」「イエスはモーセとすべての預言者から始めて…」(ルカ24:18、27)

エマオ途上の二人の弟子が復活のイエスに語った言葉です。ナザレのイエスが十字架に架けられたことを知らないのか、と。奥田知志先生(抱撲館理事長)は、彼らは「ここ数日」を語り、復活のイエスは「聖書全体を物語る」、一見絶望に見えることも神の救済の歴史全体から見れば希望となると指摘されます。大貫隆先生は「人生も長編小説」のようだと言われます。

4月17日のみことば

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:30~31)

ヨハネ21:25には「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」とあります。2021年度、4福音書を丁寧に読み、信仰を一層確かなものにしたいのですね。

 

4月16日のみことば

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書かれている事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)

弟子たちの前で焼き魚を食べて見せた主イエス。しかし主は「モーセの律法と預言者の書と詩編」、即ち旧約聖書にあらかじめ記されていたことを通してご自身の復活を確証されるのです。それはエマオ途上の二人の弟子に対してなさったことと同じでした。神の言葉である聖書のみが確信を与え、心を信仰の火で常に燃やすことができるのです(ルカ24:32)。

4月15日のみことば

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(ルカ24:38~39)

ルカ福音書の著者も、復活された主イエスを信じられない弟子たちの戸惑いを記しています。4つの福音書を見ると、主は「これでもか」と言わんばかりに、弟子たちにご自身を示されています。ルカでは「ここに何か食べ物があるか」と言われ、弟子たちが差しだした焼き魚の一切れを彼らの前で食べられたのです。みんな弟子たちの信仰を確かなものとするためでした。