1月13日のみことば

「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに/必ずしも勝つとは言えない」(コヘレト9:11)

コヘレトが「うさぎと亀」の話を知っていたとは思えませんが、速い者、強い者、知恵や知識のある者、人間関係構築が得意な者がいつも勝者になるとは限りません。反対に、遅い者、弱い者、知恵も知識も経験も足りない者、人間関係が下手な者が勝者となる場合が、実は案外多いのです。そこが人生の不思議さです。きっと神の助け、人の助力があるのでしょう。パウロも「わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:10)と言います。

1月12日のみことば

「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい」(コヘレト9:10)

ミケランジェロの「石を持つダビデ」像をご存知でしょう。1501年、イタリアのフィレンツェは外敵に攻められそうになりましたが、幸いにも戦争は避けられ、町が荒らされずに済みました。その幸運を記念するため像を建てることになり、すでに有名になっていた彫刻家ミケランジェロに委託したのです。その素材は一人の彫刻家が作業途中で放棄し、35年間も道端に放置されていた大きな大理石でした。彼は4週間でひな型を造り、3年かけて完成、市役所の入口に据えられたのでした。ミケランジェロ29才の作品です。1月ももう半ば、私たちも手をつけた働きを熱心に続けたいと思います。

1月10日のみことば

「さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる」(コヘレト9:7)

精を出して働いた日の食事ほど美味しいものはありません。「今日はいい一日だった」という満足があり、その眠りは心地よいものです。ヘルマン・ヘッセの詩にあるように、そのような眠りの中から新たな力を受けることでしょう。神はそのような生き方を「受け入れ」、豊かに祝福してくださるにちがいありません。

1月9日のみことば

「生きているものは、少なくとも知っている/自分はやがて死ぬ、ということを」(コヘレト9:5)

新年を迎えて早9日、時は過ぎ去ります。ちょっと立ち止まってこの歌を。「門松は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」。一休禅師の作だそうです。新年を迎えれば、それだけ死に近づくのですから、「めでたくもなし」の気持ちも分かります。それでも私たちは喜び感謝したいのです。なぜなら〈時〉は神がくださるのですから、神のご栄光のために有効に用い、たとえ失敗しても悔い改めやり直して生きれば良いのです。

1月8日のみことば

「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」(コヘレト9:3)

私たちはこういう思いになることがしばしばあります。短い人生なのだから好き勝手に生きたほうが得ではないだろうか? いいえ、そうではないと思います。なぜなら昨日のみ言葉のように私たちは「神の手の中にある」からです。神がその責任を問われます。私たちの一切の行為が裁かれるのです。神の前に謙遜に生きることが大切なのでは?

1月7日のみことば

「善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない」(コヘレトの言葉9:1)

イザヤ書44:6には「わたしは初めであり、終わりである」とあり、ヨハネの黙示録22:13には「わたしは初めであり、終わりである」とあります。神が歴史の支配者であり、人間はその「神の手の中にある」のです。私たちは愛したり、憎んだりして生きているのですが、その結果がどうなるのか知りません。ただ神のみが知っておられます。神の御子キリストは、父なる神に信頼し、隣人を愛することの大切さ、神に喜ばれる生き方を示されました。

1月6日のみことば

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」(Ⅰコリント12:28)

建築現場に持ち込まれた様々な資材、それらをいつ、どこに、どんなふうに使うかを設計士や現場監督はちゃんと知っています。教会には様々な賜物を持った人がいますが、それは神の御計画によるものなのです。私はある宣教師の言葉を大事にしてきました。「小さいことは自由、大きいことでは一致、そしてすべてに愛を」。互いの賜物を尊び合いたいと思います。

(この猫、いつもこの大きな楠の木の下にいます)

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