2月26日のみことば

「イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(マルコ8:15)

「パン種」は僅かな量で小麦粉全体に影響を与えます(マタイ13:33)。ファリサイ派のパン種とは形式主義で偽善的な生き方(ルカ12:1)、ペロデのパン種とは不信仰と権勢への飽くなき願望です。私たちはそういうものが心に入らないよう注意すべきです。切に願うべきは主イエスのパン種、愛と平和を私たちの生活全体に広げる力です。

2月25日のみことば

「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である」(マルコ7:34)

この箇所は主イエスが「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒された記事です。主はその人を憐れみ、たった一言「エッファタ」。たちまち彼は他者の声を聞き、はっきり話すことができるようになったのです。私はここ数日喉を傷め、声を出しにくい状態でしたので、話せる恵みを感じました。与えられた声を賛美と祈りと恵みの証のために用いたいと思いました。

2月24日のみことば

「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」」(マルコ8:19-20)

「十二の籠」は神の選びの民であるユダヤ人を、「七つの籠」は異邦人を意味するのではないでしょうか。そうすると、主イエスの恵みはユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく有り余るほど豊かに与えられるということを福音書は告げようとしているのではないでしょうか。

2月23日のみことば

「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(マルコ8:17~18)

舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとした弟子たちはパン一つしか持ち合わせておらず、そのことを主から責められていると誤解します。しかし主が願っておられること、それは神の福音を正しく見ること、聞くこと、理解すること、信じること、そして従うことなのです。それが主の弟子たちのあるべき姿なのです。

2月22日のみことば

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8)

これは当時のファリサイ派や律法学者に対する主イエスの批判です。彼らは神の掟に関する様々な言い伝えを大切にしていました。それ自体は悪いことではないでしょう。しかしいつしか言い伝えを守ることが大切にされ、神の言葉の真意は何であったかが忘れられがちでした。「これまでやってきたから、これからも…」ではなく、「これは何のためにやってきたのか…」がいつも吟味されてこそ教会は生きてくるのではないでしょうか。

2月21日のみことば

「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。…『なぜ、…汚れた手で食事をするのですか』」(マルコ7:2,5)

こう尋ねたのはファリサイ派と律法学者たちでした。食前に手を洗うことは、コロナウィルスが蔓延している時には必要なことです。しかしここで問題になっているのは衛生問題ではなく宗教問題です。彼らは手をどう洗うかという形式を問うたのです。主は彼らの内面にある偽善をご覧になりました。本当に大切なことは内面から清められることです。

2月20日のみことば

「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」(マルコ8:2)

マルコ6:30以下の「五千人の給食」では群衆を「深く憐み」、8:1以下の「四千人の給食」では「群衆がかわいそうだ」。主イエスの愛の心はいつも変わりません。主は今日も愛の心で私たちを配慮してくださるでしょう。ところで前者では主イエスは「感謝の祈り」を唱えられましたが、後者では「感謝の祈り」と「賛美の祈り」を唱えられました。主イエスの祈りの中心は父なる神の大きな善意への感謝と賛美でした。私たちの祈りもそうでありたいと思います。