9月15日のみことば

「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マタイ8:33)

なぜ主はこんな厳しい言葉を? 神の栄光ではなく人間の栄誉や利益を優先させ、神が求める道から私たちを反らすこと、それこそサタンの本質だからです。「人間は、しばしば己れに不要なものに人生をかけ、なくてはならぬものの前を素通りする」(若松英輔)。今日一日、まず神のことを思い、神の栄光を表わすことを願いつつ歩みたいものです。

9月14日のみことば

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」(マルコ8:31~32)

「あなたこそ救い主」と告白した弟子たちに、主はご自分が十字架への道を進むことをはっきりと告げられました。するとペトロは主を激しくいさめ始めたのです。彼の信仰は主の十字架を受容できなかったのです。主は愛と忍耐をもって彼らをさらに育てられます。

9月13日のみことば

「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」(マルコ8:29)

関西学院大学神学部で最初に読んだ本は、ユダヤ人哲学者M・ブーバーの『出会い 自伝的断片』でした。「我と汝」という根源語、人格と人格の出会いの大切さを学びました。信仰はその出会いにおいて成立します。主は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、彼らは「あなたはメシア」と答えました。そこに貴い信仰があります。

9月13日のみことば

「イエスは、『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」(マルコ8:26)

なぜ? ある注解者は「その人を家に帰された」に注目。癒された人の使命は、好奇心旺盛な村人にではなく、まず家族に主の恵みを証すること。他の注解者は、奇跡による肉体の癒しは尊いが、福音の本質ではないゆえに抑制。福音とは、主によって与えられるみ言葉であり、それに従うことによって生じる出来事と説明。いずれも捨てがたいですね。

9月11日のみことば

「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(マルコ8:24)

主イエスがベトサイダという村で盲人を癒されました。彼の両眼に二度手を置かれます。「何か見えるか」との最初の問いへの答えがこの言葉で、二度目は「何でもはっきり見えるようになった」(8:25)のです。何も見えなかった彼、やがて周囲の人々が「木のよう」に見え、遂には人の姿がよく見えるようになったのです。主は私たちにも同様にされます。私たちと共にいる人々は物や敵ではなく、主にある愛すべき兄弟姉妹たちです。

9月10日のみことば

「イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(マルコ8:15)

「パン種」は僅かな量で小麦粉全体に影響を与えます(マタイ13:33)。ファリサイ派のパン種とは形式主義で偽善的な生き方(ルカ12:1)、ペロデのパン種とは不信仰と権勢への飽くなき願望です。私たちはそういうものが心に入らないよう注意すべきです。切に願うべきは主イエスのパン種、愛と平和を私たちの生活全体に広げる力です。

9月9日のみことば

「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(マルコ8:17~18)

新しい旅に出た弟子たちが持参したのはわずかパン一個。誰のせい? 弟子たち同士で責任追及が始まったかもしれません。しかしここで必要なのは、5000人、4000人以上の人々を養った主の愛と力への信頼でしょう。主は私たちにも信頼を促しておられます。

(古代の食事、新鮮でおいしそう! 『イエス時代の日常生活』より)