2月9日のみことば

「そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(マルコ6:6~7)

故郷ナザレの人々の不信仰に驚かれた主イエス。しかしそれは主イエスの福音宣教への思いを妨げるどころか、一層燃え立たせることとなったのです。ご自身付近の村々を巡り歩いて福音を宣教され、さらに弟子たちをも派遣されたのです。私たちの心にある大切な願いを妨げるような問題に直面するかもしれません。しかし神の力は私たちの心を燃え立たせます。

2月8日のみことば

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6:5~6)

故郷ナザレの人々は主イエスのことを「この人はマリアの息子」と言い、嫉妬のゆえに信じませんでした。主は彼らの不信仰に驚き、恵みの御業を行うことができませんでした。反対に、マタイ15:28では娘の癒しを切望する母親に、「あなたの信仰は立派だ」と言って癒されました。問われているのは信仰の有無なのです。私たちはどうでしょうか。

2月7日のみことば

「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」(マルコ5:27~28)

この女性は12年間も病に苦しんでいました。「苦しみ(マスティクス)」には「鞭」という意味もあります。つまり彼女は12年間も鞭で打たれ続けるような苦しみを味わっていたのです。「癒されたい」という切なる願いから彼女は主イエスの衣の裾に触れました。その時主イエスの大いなる力は彼女を完全に癒したのです。主イエスに結びつく幸いを思います。

2月6日のみことば

「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(マルコ5:23)

会堂長ヤイロの、12歳の娘は重篤でした。ヤイロは当然医者の助けを求めましたが、なすすべはありませんでした。諦めきれないヤイロは主イエスのもとに来て、娘に手を置いてやってほしいと懇願しました。主は娘のもとに行かれ、その御手をそっと置かれました。「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)。同様に主の愛の御手は私たちの上にも置かれるのです。

2月5日のみことば

「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」(マルコ5:18)

主イエスに対しては常に二種類の反応があります。一つは癒されたこの人のように主イエスと「一緒に行きたい」と願う人、もう一つは自分たちの財産である豚を失った人々のように自分たちの地方から一刻も早く「出て行ってもらいたい」と願う人です。私たちはどちらでしょうか。もちろん前者のようでありたいし、神の恵みを心を込めて証ししたいと願います。

2月4日のみことば

「イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『名はレギオン。大勢だから』と言った」(マルコ5:9)

凶暴な目で他者を怖れさせ、自らを傷つけるこの男性、名は「レギオン」、ローマの軍団を意味する言葉です。それほどの悪霊の力が彼を支配していたのです。どんなに苦しかったことでしょう。主は彼をその力から解放されます。穏やかな表情で主の側に座っているのです。ガリラヤ湖の〈大なぎ〉、この人の〈大なぎ〉、主は私たちにも〈大なぎ〉をもたらされます。

2月3日のみことば

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4:40)

ガリラヤ湖の嵐を静められた後、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。「怖がる」と「信じる」が続けられています。両者には深いつながりがあります。恐れは神の愛と力への信頼が欠けたところで生じ、信頼のあるところには平安が生じてきます。弁護士ササキ・アイザック・ミツオ氏は『どんなことにもくよくよするな!』の中で、愛に満ちた神への信頼の大切さを語り、「『シンパイ』と『シンライ』には、天と地ほどの違いがある」と書いています。