12月30日のみことば

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)

ロシアはウクライナを完全支配しようと躍起になり、イスラエルはガザから一人残らずアラブ人を追い出そうとしています。実に恐ろしいことです。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われました。違いは豊かさのしるし、違う賜物が集まって、神のご栄光が一層現れるのです。その時、世界はダイヤモンドのように輝くのではないでしょうか。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。…そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(Ⅰコリント12:14、18)。

12月29日のみことば

「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)

偽りの教えは私たちをがんじがらめにします。オウム真理教は反社会的な行動に走り、世界平和統一家庭連合(天の父母様聖会、元統一原理)は多くの家庭を崩壊しました。「真理をよりどころとしていない。彼のうちには真理がない」(ヨハネ8:44)からです。しかしキリストは私たちを様々な偽りの教えから解放し、喜びと愛に満たしてくださるのです。一人でも多くの方がキリストの言葉に耳を傾けてくださることを心から願っています。

12月28日のみことば

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ 8:12)

クリスマスにはアドベントクランツ全てのキャンドルが灯りました。しかし今その火は消えました。では私たちの人生は再び暗くなったのでしょうか。決してそうではありません。美しい光は私たちの心に灯ったのです。苦しく悲しい時もあるでしょう、しかし輝き続けるのです。子どもの頃、教会学校で教わった讃美歌を思い出します。「わたしは小さい灯光りましょう/悪魔が吹いても光りましょう、悪魔が吹いても光りましょう、光れ、光れ、光れ」。
(昨日ご紹介した加来国生牧師の著書『パン屑牧師の行状記』)

12月27日のみことば

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)

昔、佐賀教会の牧師だった故加来国生先生はユーモアを込めて「信者は儲かる!」と言われました。「?」と思う私たちに「〈信〉と〈者〉をくっつけると〈儲〉という字になるでしょう」と言われ、「なるほど!」と思いました。また若松市の市長で、五市合併による北九州市の誕生に尽力し、初代市長となった故吉田敬太郎牧師の説教を忘れることができません。「充満、充満、恵みの充満。充満、充満、命の充満」。それほど福音は恵みに溢れているのです。

12月25日のみことば

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1:4)

ヨハネ福音書は神の子イエス・キリストのことを「言(ことば)」と表現します。神の聖なる意思を実現する方だからです。またこの神の子は私たちの歩むべき道を照らす光でもあります。昔、私の知人は夜曲がりくねった海岸線を車で走っていましたが、突然ヘッドライトが消え、車はガードレールを突き破って海に落ちました。しかし幸いにも満潮でなかったので、彼は助かりました。光がなければ私たちは進むべき道を見失うのです。神の子キリストは人生の道をはっきりと照らしてくださる光なのです。

(40年近く前にシナイ山から見た美しく神々しい朝日。Iさんと一緒に登り、この光の中で西南学院教会のために祈った日が懐かしい)

12月24日のみことば

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

「クリスマスがやって来て、流れ去る時を秩序づけます」(神学者J・モルトマン)。もし神の子キリストが誕生してくださらなかったら、私たちの日々は「流れ去る時」でしかなかったでしょう。しかし独り子の誕生ゆえに、私たちの人生は神の救済史の中に位置づけられ、日々の歩みは意義あるものとなったのです。

12月23日のみことば

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)

見聞きしたことはすべて天使の話したとおりでした。「寸分の狂いもなく」といったところでしょうか。幼子キリストの側にいた時間は素晴らしいものでした。立ち去りがたい時間でした。帰路、彼らは「神をあがめ、賛美しながら」帰って行ったのですが、その賛美はどんなメロディだったでしょうか。おそらく天の大軍が歌ったあのメロディだったのではないでしょうか。福音書記者は私たちにもこの賛美に加わるよう促すのです。「天に栄光、地に平和」。

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