11月22日のみことば

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4:2)

しばしば福音宣教の難しさが語られます。本当にそうでしょうか。実はもっと簡単なのではないでしょうか。どんなに素晴らしい商品でも、それを販売する人が苦虫をかんだような顔をしていては、誰もその素晴らしさを信じないでしょう。そう、私たちの笑顔こそキリストの福音が本物であることを証しているのです。さて、ちょっと鏡の前に立ってみましょうか。

11月21日のみことば

「わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」(コロサイ4:3)

この時、使徒パウロは牢につながれており、福音を伝えることができない状況でした。しかし信仰の仲間の祈りによって福音宣教の道はきっと開かれるとパウロは確信しているのです。E.M.バウンズ人は「祈りは福音宣教のためにさまざまな可能性を与えます」と言っています。コロナ禍で病床の友に会うことができませんが、祈りが新たな道を示すことを信じていきましょう。

11月20日のみことば

「七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」(マタイ15:36)

主イエスは4000人の人々への給食に際し、父なる神への「感謝の祈り」を唱えられました。私が大切にしている詩をご紹介します。「パンの背後に粉があり、粉の背後に水車あり、水車の背後に農夫あり、農夫の背後に日と雨と、そして御神の心あり」。「年をとればとるほど、人の心の中には感謝への思いが大きくなっていく」(ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバー)

11月19日のみことば

「天にいます神に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩編136:26)

この詩編136編には26節あり、その各節で「感謝せよ」と詠っています。それほど感謝は大切なのです。ある人が「感謝の念は、人間らしくあるために最初に抱き、最後まで持ち続ける思いである」と言いました。藤木正三先生は『神の風景』の中で「すべてのことに感謝ができれば他に何を欠こうとも、人間としては成長を極めているといってもよいでしょう」と書いておられました。時々感謝の思いが消える自分自身を恥ずかしく思いながら歩んでいます。

11月18日のみことば

「あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くにいまし/人々は驚くべき御業を物語ります」(詩編75:2)

子どもの頃に「ありがた余市兵衛」の話を読みました。どんなことにも感謝する人で、道で転んでも「ありがたい!」と言って起き上がるのです。友人が「どうして?」と尋ねますと、「骨を折らなかったから」と答えたそうです。言われてみれば、確かにそうです。口を開けば不平不満、他人の欠点をあげつらうより、「ありがとうございます」の方がはるかに良いですね。

11月17日のみことば

「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ」(詩編30:5)
ある時は自分の思いから「こうなって欲しい」と強く願うことがあります。しかし後になってみると、そうならなくて本当に良かったと思えることがなんと多いことでしょう。そこにはきっと神の深いご計画があります。カトリック司祭だったヘンリー・ナーウェンの言葉です。「感謝の念とは、自分の人生がどのような形で展開していくとしても、それを贈りものとして認識することである」。

11月16日のみことば

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編102:2)

どうも私たちは忘れっぽいようです。昨晩の夕食で何を食べたか、思い出せないこともしばしばあります。ましてや神が私たちに与えてくださった数々の恵みをずっと覚えている人は少ないのでは? 「感謝することに天分の才能のある人は、喜ぶ才能にも恵まれている」と言った方がありました。詩編の詩人は「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と励ましています。

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