6月23日のみことば

「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(マルコ3:2)

時は安息日、場所は会堂です。主イエスが片手の不自由な人を癒すかどうか、人々は様子をうかがっているのです。律法は安息日の働きを禁じ、口伝律法は病人を癒すことは仕事にあたると規定していたからです。私たちが主日に会堂ですべきことは、神の救いを心を込めて祈ること、御子イエスを通してしてくださる大いなる愛を讃美することではないでしょうか。

 

6月22日のみことば

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:28)

主イエスと弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたのを、ファリサイ派の人々が目ざとく見つけ、「安息日にしてはならないことをするのか」と厳しくとがめたのです。当時のユダヤ人たちにはモーセの律法の他に無数の口伝律法がありました。安息日に麦の穂を摘むことは刈り入れ、麦の殻を取ることは脱穀と言った具合に。主イエスは、父なる神が安息日をお与えになったのは束縛のためではなく解放のため、喜びのためであることを教えられたのです。

 

6月21日のみことば

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2:22)

主イエスを信じる人は新しいライフスタイルで生きるのです。新しい布を切り取って糸が弱った古い布の継ぎ当てにしたりはしません。古い布の破れはひどくなります。古い革袋に発酵力の強い新しいぶどう酒を入れたりはしません。古い革袋は張り裂けてしまいます。私たちの生活は喜びに溢れていますから、古いライフスタイルではなく、新しいライフスタイルが必要なのです。キリストが私たちに下さる人生は喜びと愛と希望に満ち溢れた人生です。

 

6月20日のみことば

「だれも、織りたての布切れをとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れは古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」(マルコ2:21)

マルコは新しい布と古い布の例を用いて、ファリサイ派が〈古い布・断食〉を重んじる群れであるのに対し、主イエスの群れは〈新しい布・喜び〉の群れであることを強調します。最近新型コロナウイルス後の〈新しい生活様式〉ということが言われます。それも必要ですが、私たちは主がくださる愛と喜びと希望という〈新しいライフスタイル〉の群れなのです。

 

6月19日のみことば

「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い去られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(マルコ2:19~20)

「断食」とは食事の全部または一部を断って悲しみや懺悔の気持ちを表現するのです。ファリサイ派の人々は週に2回断食しました(ルカ18:12)。コヘレトの言葉3:4には「泣く時、笑う時」とあります。受難節にはキリスト者は主の十字架の苦しみを想起し、自分の弱さと罪深さを悲しみ悔い改めます。しかし今は主の救いを心から喜び祝う時なのです。

 

6月18日のみことば

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(マルコ2:19)

「婚礼の客」とは「花婿の友人や客」のことであり、彼らは「婚礼の準備を手伝い、式の開始と共に喜びで満たされる」のです。花婿は主イエス、私たちは「婚礼の客」です。私たちの務めは花婿である主イエスを心から喜ぶことであり、喜びの場を準備し、喜びの維持拡大のために働くことです。「陰気な顔つきはクリスチャンには相応しくない」(スポルジョン)。

 

6月17日のみことば

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)

これは主イエスが言われた言葉です。病気の自覚がなければ人は医者には行きません。同様に、自分は神と人に対して「欠けている者」「不完全な者」であるという自覚がない人、即ち、自分は完璧だと思い込んでいる人には、神の愛や赦しは不要に思えることでしょう。でも、体にも心にも弱さがあるという内的自覚、これは人間としての気品だと私は思うのです。