2月17日のみことば

「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(マルコ6:48)

山で祈っておられた主は弟子たちの舟が嵐に遭遇しているのを知り、急いで山を下り、湖上を歩いて弟子たちの舟に近づかれます。しかし「そばを通り過ぎようとされた」とあります。なぜ? 怖れている弟子たちを励まし、進むべき方向を示すためではなかったでしょうか。私たちが困難に遭遇する時も、主は側にいて勇気づけ、確かな進路を示してくださいます。

2月16日のみことば

「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」(マルコ6:42~43)

5000人以上の人々が主イエスのパンと干し魚を頂きました。遠慮してまだ空腹という人は一人もおらず、皆満ち足りていたのです。これまでの生活でこんなことはついぞなかったことでしょう。主イエスはみことばをもって心を(マルコ6:34)、パンをもって体を養われたのです。私たちの心と体の健康、それこそ主イエスが願っておられることなのです。

2月15日のみことば

「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6:41)

5000人以上の人々にパンと魚を与えるのです。弟子たちは自分の手の中を見ます。そこには5つのパンと2匹の干し魚、財布の中には僅かなお金しかありません。しかし主イエスは天を仰ぐのです。弟子たちは「無理です」と言うのです。しかし主イエスは「賛美の祈りを唱える」のです。大事な課題に取り組む時、まず神に目を向け、祈りを捧げたいものです。

2月14日のみことば

「イエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った」(マルコ6:37)

私はこの箇所に「主の無理難題」という見出しをつけたいです。弟子の戸惑いは当然です。5000人以上にパンを与えるのですから。仮に今100人に朝食をと言われても無理です。しかし主は方法をご存知です。福音書記者は主の知恵と力への信頼を促しているのです。

2月13日のみことば

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)

主イエスの後を追ってきた人々、日々の生活のために、また将来への不安のために疲れ切った人々、主イエスの目には「飼う者のいない羊」のように見えました。主の心の中に深い憐れみが沸き起こりました。「憐れみ」とは本来内臓を意味する言葉であり、心の底から彼らの苦しみに同情している様子を表しています。主は私たちの苦しみにも共感されるお方です。

2月11日のみことば

「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マルコ6:31)

主イエスは弟子たちの働きを評価されると同時に、彼らの健康を配慮し、休息を与えようとされます。弟子たちがゆっくり食事を取り、談笑し合い、何よりも静かな祈りの時を持つために。法律家であり思想家であったカール・ヒルティは、喜びの生活ためには仕事が必要であること、同時に休むことなく働き続けることは無教養な人間のしるしだと言っています。

2月10日のみことば

「ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう』と言い、更に、『お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓ったのである」(マルコ6:22~23)

ヘロデ王は自分の力を誇示すべく娘サロメに「なんでも与えよう」と言い、娘は母ヘロディアにそそのかされてヨハネの命を求めたのです。人間の罪の根深さと傲慢がもたらす不幸を痛感します。私たちは神ではなく人間であることを思い、慎ましく生きたいと願います。