1月5日のみことば

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Ⅰコリント12:27)

使徒パウロは〈教会〉を〈体〉、一人ひとりを手、足、耳、目などの〈部分〉になぞらえ、各部分が助け合うことによって全体の益になると言います。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません」。互いを排除し合う教会は必ず弱体化し、主イエス・キリストの聖なる御名を汚します。聖霊が与えてくださった違った賜物を豊かに役立てることによって主のご栄光は大きく現れるのです。〈違いは豊かさ〉です。山に様々な木があってこそ新緑も紅葉も美しいのです。

1月4日のみことば

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)

「新年早々この聖句?」と思う人もあるかもしれません。しかし世界はいつも喜びとは無縁の悲しみや理不尽な苦しみの中に置かれている人がいることを忘れてはならないと思います。けれども神はそのような人を決してお忘れにならず、近くに呼び寄せ、否、主の方から近づき、両腕に抱きしめ、慰め、励まされるのです。ルカ福音書6:21には「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」とあります。神が彼らの涙をぬぐわれた時、笑顔が戻り、心の底から明るい喜びの声が湧き上がるようになるのです。

(西南の杜湖畔公園の熊添池で)

1月3日のみことば

「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」(ヤコブ5:8)

初代のキリスト者は厳しい時代を生きていましたが、しかめっ面はしていませんでした。むしろ希望をもって明るい顔で忍耐していたのです。ある牧師の言葉は彼らの信仰を適切に表現しています。「近づいてくるものは、死という不気味な足音ではありません。主イエス・キリストが来られる軽やかな救いを刻む足音です。このキリストの足音を聴きながら、今の時を神から与えられたかけがえのない一コマ一コマとして時を刻んで生きるのです」。

(西南杜の湖畔公園から見える福岡タワー)

(no title)

「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。…今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(ローマ13:11~12)

主なる神の恵みのうちに新しい年を迎えました。使徒パウロは「時」を知っている人でした。「夜は更け、日は近づいた」のです。神を信じる人には救いが確実に近づいている。反対に神の聖なる意思に背く人には裁きが近づいているのです。だからパウロは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ12:12)と強く勧めるのです。今年もパウロの信仰に倣う者でありたいと願います。

1月2日のみことば

「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。…今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(ローマ13:11~12)

主なる神の恵みのうちに新しい年を迎えました。使徒パウロは「時」を知っている人でした。「夜は更け、日は近づいた」のです。神を信じる人には救いが確実に近づいている。反対に神の聖なる意思に背く人には裁きが近づいているのです。だからパウロは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ12:12)と強く勧めるのです。今年もパウロの信仰に倣う者でありたいと願います。(西南の杜湖畔公園熊添池の野鳥と鯉)

1月1日のみことば

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(Ⅰテモテ1:15)

新年明けましておめでとうございます。12月に祝ったクリスマスはあっと言う間に過ぎ去り、いつもと変わらない日常に戻ってしまったのでしょうか。いいえ、決して変わらぬ大切な出来事として確認されました。神の御子イエス・キリストは私の人生の中に来てくださり、私たちと共に生きてくださるのです。そうです、体温を感じるほど近くにおられて、この一年も私たちと共に歩み、日々慰め励まし導いてくださるのです。

12月31日のみことば

「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:10)

西南の杜湖畔公園を散歩していた時のこと。向こうから若いお父さんと幼稚園児くらいの女の子がやってきました。遊んだ帰りでしょうか、女の子が口ずさんでいました。「シュワレヲアイシュ、シュワチュヨケレバ、ワレヨククトモ、オショレハアラジ」。「ああ、『主われを愛す』だ」。すれ違いながら私たちも心の中で歌いました。「われ弱くとも恐れはあらじ」。それにしても女のコの「アイシュ」「チュヨケレバ」「オショレ」が可愛かった。

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