9月23日のみことば

「イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた」(ルカ8:25)

ガリラヤ湖で嵐に遭遇し、恐れおののく弟子たちに主イエスが言われた言葉です。第一次世界大戦が近づいていた時、友人がブーバーに「君は神を信じているかね?」と問うたそうです。友人を駅まで見送った後、ブーバーは彼から問われたその場所に再び立ち止まって「私は神を信じていると言えるのだろうか?」、自分の信仰はこれから起きる困難に持ちこたえるほど堅固なものだろうか、その答えを見出すまではここから一歩も動くまいと決心したのでした。

9月22日のみことば

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました」(詩篇119:71/口語訳)

こんな聖句に出会うと、「まさか?」と思います。私は苦しみに遇いたくはありません。でもマルティン・ブーバーはこう言うのです。「絶望とは、神の送る使者の中で最高の使者だ。それはわれわれが、創造と決断のできる精神の持ち主になる準備の役割を担っている」。そう言われると、しんどいと思った時、私は確かに神を必要とし、導きと助けを求めて真剣に祈り、一日一日を懸命に生きたのです。その時、神は確かに生きておられることに気づいたのです。

9月21日のみことば

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)

ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーに関する本を読んでいて、「そうだなあ」と思えた言葉がありました。「真の関係性は、わざとらしさや我意のない『無為』によってこそ実現されるからである」。主イエスの時代、ファリサイ派の人々の祈りや慈善はわざとらしく、これ見よがしで、鼻持ちならないものだったのでしょう。それに比べ、主イエスにはわざとらしさがなく、とても自然だったのです。人々はそんな主の姿に魅かれていったのでしょう。

9月21日のみことば

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)

ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーに関する本を読んでいて、「そうだなあ」と思えた言葉がありました。「真の関係性は、わざとらしさや我意のない『無為』によってこそ実現されるからである」。主イエスの時代、ファリサイ派の人々の祈りや慈善はわざとらしく、これ見よがしで、鼻持ちならないものだったのでしょう。それに比べ、主イエスにはわざとらしさがなく、とても自然だったのです。人々はそんな主の姿に魅かれていったのでしょう。

9月20日のみことば

「イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスの弟子たちと同席していた」(マルコ2:15)

イエスの時代、徴税人は支配者ローマ皇帝のためにユダヤの住民から血税をしぼり取っており、ユダヤの住民からは蛇やさそりのように嫌われていました。レビはその徴税人であり、仲間を招いて宴会を催していたのですから、ユダヤの人々は顔をしかめたのです。しかしイエスは彼らと喜んで食事をされました。なぜ? 彼らに父なる神の愛を伝えるためでした。

9月19日のみことば

「子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」(マルコ5:41)

白内障の手術はわずか15分なのに、とても長く感じました。ふと、誰かが私の手を握っているのに気がつきました。「誰の手だろう?」おそらく看護師さんの手だったのでしょうが、なんだかとてもほっとしたのです。私たちも人生途上で様々な苦難に出会うことがあります。そんな時こんなふうに主イエスは私たちの手を取ってくださっているのでしょうね。

 

9月18日のみことば

「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(マルコ8:25)

先週私は白内障の手術を受けました。手術は15分、翌日には「大丈夫です。読書もなさってください」との医師の言葉。空も人も見るもの全てがクリアに! 恵みとして与えられた視力で信仰の書をもっと読もう。「人と人のあいだを美しく見よう」(信仰詩人八木重吉)。

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