1月22日のみことば

「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)

棚次正和という宗教学者が『祈りの人間学』という著書の中で、人間というのはそもそも祈る存在であり、「本質的に人間は宗教的な存在であり、人間は誰でも絶対的なものを志向せざるを得ない、祈ることは人間の自然本性なのだ」と言っています。確かにそうです。年末年始、神社仏閣に詣でる人のなんと多いことでしょう。あの中には常日頃は無神論を標榜している人も大勢混じっているのではないでしょうか。確かに祈りによって人は支えられているのですね。

1月21日のみことば

「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:5)

「第一の日である」とあり、続けて「第二の日」「第三の日」「第四の日」「第五の日」「第六の日」と創造の業が続き、そして創造の業を完了した「第七の日」が来ます。私たちは新しい年を迎え、今日はもう21日です。日々の忙しさのために「今日は…をしなければ」「明日は…」と、まるで自分が一日一日を取り仕切っているかのような錯覚に陥ります。しかし本当は神が一日に一枚、新しい頁をめくってくださっているのです。そこにどんな言葉を記すのか、どんな働きの絵を描くのか…。ゆっくり大切に今日という日を歩みたいと願います。

1月20日のみことば

「神は光を見て、良しとされた」(創世記1:4)

「良しとされた」という言葉を大事にしましょう。陶器師が丹精して作った作品を手に取り、隅から隅までじっくり見て納得するように、神はご自身がお造りなったものをご覧になり、「良し」と太鼓判を押されたのです。神の被造物に対して誰一人「悪い」「二流品だ」「欠陥品だ」と難癖をつけられないほど貴いのだという信仰が表現されているのです。

1月19日のみことば

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)

光はありがたいものです。曽野綾子さんの『砂漠・この神の大地 サハラ縦断記』(朝日新聞社)に、夜の砂漠でのトイレの仕方が記されています。2つの懐中電灯が絶対に必要です。1つは自分の寝袋のある場所に置き、もう1つは自分の足元を照らすため。戻るべき場所に懐中電灯を置いてなかったら、その人は夜通し砂漠の中を歩き回ることになるのです。光は神の作品の美しさを示すと同時に私たちが進むべき道を示すもの道しるべなのです。

1月18日のみことば

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)

詩編33:6には「御言葉によって天は造られ」と記されています。言葉は神の意志の表現です。聖書は天地万有が偶然に存在するのではなく、神の聖なる意志によって存在するのだと告げているのです。私という存在、あなたという存在は神の意志によって存在しているのです。神が創造された光の中でお互いを見、この自然を見る時、それはなんと美しく貴いことでしょう。破壊してよいものなど一つもないのです。

1月17日のみことば

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)

「神の霊」、それはルーアハ、神の息、神の力そのものです。それが混沌の地、深淵の闇を覆っていたと言うのです。先に紹介した松田明三郎先生は、「卵を羽でおおい暖める鳥のように、混沌の水の上をおおい暖めている」と説明しておられます。これは神の愛をあらわしているのではないでしょうか。だから今私たちの生きる世界がどんなに暗かろうが、混乱していようが、私たちは絶望しません、諦めません。神がこの世界を愛し、暖め、新しい働きを始めようとしてくださるからです。

1月16日のみことば

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)

小泉悠氏の『ウクライナ戦争』を読みました。なぜこの戦争が始まったのかを知りたかったからです。「NATO拡大への恐怖」「民族主義的動機」などいくつもの理由を挙げていましたが、結論として「プーチンに開戦を決意させた動機は何であったのかは、現時点では『よく分からない』と認めるほかないであろう」と記されていました。プーチン自身、この戦争をどう終結すればいいのか、本当は分からないのではないか…。人間の思考はしばしば「混沌であって、闇が深淵の面にあり」だと思いました。

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