6月17日のみことば

地の果てまで、すべての民が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。(詩篇22:28)

どうして多くの人は、神を信じることは束縛されることだと考えるのだろうか。神を信じることは、これまで束縛されていた無益な習慣や罪の意識からの解放であり、心の底からの喜びなのだ。私はこの詩人と同じように、一人でも多くの人が神の愛と恵みに気づき、喜びに満ちた生活を始めるように祈る。

6月16日のみことば

いつまでも健やかな命が与えられますように。(詩編22:27)

私は礼拝の時、心の中でこう祈る。「この集まりに参加できる時間と健康が与えられたことを感謝します」。そのいずれが欠けても参加できなかったのだから。よく考えてみると、時間も健康も神のすばらしい賜物。その賜物を何に使うかは私たちに委ねられているが、私は神のために用いることこそ最高の用い方だと思う。そこに恵みはさらに加えられるはず。

6月15日のみことば

主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。(詩編22:25)

あなたは神に真剣に祈ったことがあるに違いない。私も何度もある。その時、神がその祈りを侮られたり、さげすまれたりなさったことは一度もなかった。後から考えると、どうしてあの時あんな身勝手な祈りをしたのだろうと赤面するようなこともある。しかしそれでも神は私たちをさげすまれないし、侮られない。私たちの心に寄り添って、耳を傾けてくださった。そして私たちをそっと慰め、励まし、立ち上がらせ、進むべき道を示し、希望と勇気を与え、押し出してくださった。もし今、あなたが苦しみの只中にあるなら、どんな言葉でもいい、祈ることを勧める。

6月14日のみことば

わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。(詩編22:12、20)

苦しい状況にある時、親しい者が自分から次第に去っていくことがある。こんな悲しいことはない。しかし詩人は究極の慰め主を知っていた。「主よ、あなただけは・・・」。神はいつも彼のすぐ側に立っていてくださった。今、あなたがこの詩人と同じような状況にあるなら、あなたの側にいてくださる方のことを忘れないように。

6月13日のみことば

「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」(詩編23:5)

自分の一生は生まれる前から死ぬまで、そして死後も神の愛の御手の中と、信じる人は幸いだ。イザヤ46:4にはこう記されている。「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」今日の歩みも神の守りと祝福の中。

6月12日のみことば

助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。(詩編22:6)

太宰治の作品『津軽』にこういう言葉がある。「大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らねばならぬ。なぜ用心深くしなければならないのだろう。その答えは何でもない。見事に裏切られて赤恥をかいたことが多すぎたからである。人は当てにならないという発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは裏切られた青年の姿である。」そういう経験を私たちもしてきた。しかし、そこで学んだことがある。それは、それにもかかわらず信頼できる人がいるということ、さらには信頼できる神がいらっしゃるということ。

6月11日のみことば

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22~23)

聖霊の結ぶ実は節制です。「度を越さないよう控えめにすること」「ほどよくすること」「規律正しく統制がとれていること」。ホイヴェルス神父が紹介した「最上のわざ」の一節。「楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り…」。これからの私の自戒です。聖霊よ、私の心に「節制」「自制」という安全装置をください。

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