6月30日のみことば

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた」(マルコ3:13~14)

主イエスは「これと思う人々」を使徒とされました。「これと思う」とは「望む」「願う」「欲する」。主はどのような人を求められたのでしょう。ある注解者は「頼みとすることのできる仲介者」、即ち福音宣教の働きを安心して託せる人たちと説明しています。主から頼みとされるとは何と光栄なことでしょう。私たちもそうありたいと願います。

6月29日のみことば

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた」(マルコ3:13~14)

悩み苦しむ多くの人々が救いを求めて主イエスのもとに集まってきました(マルコ3:7~12)。主はその求めに十分に対応するために十二人選び、「使徒」と名付けられました。彼らは主ご自身の働きを共に担うのです。昔は主を求める人は多かったが、今はそうではない? いいえ、今も多いのです。私たちも福音を共に伝える者として召されているのです。

 

6月28日のみことば

「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。…」(マルコ3:7~8)

人々はガリラヤから、ユダヤから、ヨルダン川の東部から、そして地中海沿岸の町々から「おびただしい群衆」が押し寄せ、主イエスは押しつぶされそうな有様でした。主は弟子たちに小舟を用意するように言われ、小舟から話されました。現代も主の救いを求める人は大勢です。私たちは、主が語られるための小舟、即ち時と場を準備したいと思います。

6月27日のみことば

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3:6)

神の求めたもうことは「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問われた主イエス。しかしファリサイ派とヘロデ派の人々は、「早速」イエスを殺す相談を始めたのです。主イエスに従う私たちの心は、いつも「善を行うこと、命を救うこと」に向けられており、ためらいながらではなく、速やかに始められるべきなのです。

6月26日のみことば

「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(マルコ3:5)

主イエスの怒りは「悲しみ」に基くもの、その悲しみの奥には愛がありました。主は彼らの頑なさを悲しみ、怒られました。「頑な」とはギリシャ語ではポーローシス、角質化した皮膚のことです。彼らの心はそのようであり、もっと言えば「片手の萎えた人の手よりひどい状態」でした。主は私たちの心も体もしなやかで健やかにしてくださるお方です。

6月25日のみことば

「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」(マルコ3:3)

病いに苦しむ者に対する主イエスの優しさは並大抵ではありません。手が不自由であるということは大変なことだったでしょう。幼い頃からでしょうか、それともケガをしたのでしょうか。どうやって仕事をし、家族支えていたのでしょう。主イエスは彼に「真ん中に立ちなさい」と言われます。神の大いなる恵みの御業を受けるためです。マルコ9:36では主イエスは幼子をも真ん中に立たせ祝福されたとあります。主は私たちを祝福の場に招かれます。

 

6月24日のみことば

「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた」(マルコ3:4)

「安息日を心に留め、これを聖別せよ』(出エジプト記20:8)。神がこの掟を与えたのは何のためでしょうか。神の前にいて癒され、神の御旨を知り、神の喜びたもう善を行うためです。神の御心を知りつつ積極的に善を行わないことは、消極的に神の御旨に背き、悪を行うこと、否、「命を殺す」ことと同じだと言われるのです。今日も主のために善いことを!