9月28日のみことば

「夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え」(コヘレト5:6)

諺に「沈黙は金、雄弁は銀」(Speech is silver, silence is golden)とあります。「沈黙することは多くを語る以上に価値がある」という意味ですが、詩編にも沈黙を尊ぶ言葉がしばしば出てきます。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな」(37:7)「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」(62:2)「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている」(62:)6)。神の前での沈黙は希望や賛美が生まれる肥沃な大地のようです。

鹿児島市東千石町(天文館の北西側)にあるザビエル滞鹿記念碑。キリストの福音を説いているヤジロー、ザビエル、ベルナルドの像が立つ。


9月27日のみことば

「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ6:7)

イエスが教えてくださった「主の祈り」は実に端的です。必要な祈りが凝縮されています。それに比べ私たちの祈りはくどすぎる気がします。「焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」(コヘレト5:1)。なぜでしょう? 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)。祈りは全てを神に委ねるところから始まります。
鹿児島錦江湾に面した祇園之洲公園、ザビエル上陸地点に立つ記念碑。1549年8月15日、ザビエル43才。

9月26日のみことば

「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)

祈りとは何でしょう。井上洋治神父は『私の中のキリスト』の中で「人間がまさに本然の人間の姿に立ち返る営みである」と言っています。本当にそうだと思います。一切のしがらみから離れ、目の前に確かにいてくださる慈しみ深い神を覚えつつ、そっと「神さま」と呼びかけるのです。「おんちち うえさま おんちち うえさま と となうるなり」(八木重吉)。

9月25日のみことば

「愚かな者は愚かなことを語り/その心は災いをたくらむ。神を無視し、主について迷わすことを語り…」(イザヤ32:6)

詩編は「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」(詩編14:1、53:2)と言っています。「人間は自分自身の主人になっている。人間と神との合一は破れて、その再建はもはやいささかも想像しえないほどになっている。これがわれわれの状態である」(カール・バルト『ローマ書』)。神はいない、神など信じないと大声で言う人は決して賢い人ではないようですね。

9月24日のみことば

「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3:9)

一週間の歩みを振り返ると、神と私たちの関係はどうだったでしょうか。神の愛の内に日々導きを頂いてきたでしょうか。それともアダムとエバのように身を隠してはいなかったでしょうか。神学者カール・バルトは『ローマ書』注解でこう言っています。「われわれが神と疎隔し、神に離反し、かつその結果が深刻であるということは、われわれが夢想もできないほどである。」私たちは少年サムエルのように「主よ、お話しください。僕は聞いております」(Ⅰサムエル3:9)と答えたいと思います。

9月23日のみことば

「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る」(箴言11:28)

聖書は富を否定してはいません。それも神からいただく祝福です。しかし私たちの中で富がまるで神のようになることを聖書は警告しているのです。主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われます。使徒パウロは「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」(Ⅰテモテ6:9)と戒めています。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない」(詩編1:2-3)。神を第一とする生き方を求めていきましょう。

9月22日のみことば

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)

これは主イエスの言葉です。神学者リチャード・J・フォスターは「現代神話の中で、われわれは『貪欲』を『野心』と呼ぶ。『買いだめ』を『用心深さ』、『欲張り』を『勤勉』と言うのである」と言っています。現代人は古代の人々の考えを無価値な神話だと言いますが、古代人からすると現代人もとても理解できない神話を持っているように見えるのではないでしょうか。「神はすでに多くの恵みをくださっているのに、なぜ何も持っていないかのように忙しく生きているのですか?」。

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