9月22日のみことば

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのため…」(マルコ9:5

モーセは律法を、エリヤは預言者を、そして二人は旧約聖書を代表する人物です。彼らが主イエスと話している、主イエスに仕えている、それを知ったことの素晴らしさ。ヨハネ福音書の言葉で言えば、「聖書はわたし(イエス)について証しをするものだ」(5:39)ということです。そういう真理に立って聖書を読み、生きることの幸いを思います。

9月21日のみことば

「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(マルコ9:4)

ヘルモン山でペトロ、ヤコブ、ヨハネが経験した主イエスの変貌です。栄光に輝く主イエス、そして預言者を代表するエリヤと、律法を代表するモーセが、神の御子イエスと恭しく語り合っているのです。主イエスは律法と預言書を成就する方、彼らの上に立つお方、神の独り子であることを知った弟子たちの驚きと喜び。「ここにいるのは、すばらしいことです」。私たちもそのことを明確に知らされています。なんと幸いなことでしょうか!

9月20日のみことば

「イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」(マルコ9:1)

「神の国が力にあふれて現れるのを見る」とあります。終末における神の救いの完全な実現というよりも、信仰生活において経験する神の恵みと救いと考えたいと思います。それを一度も経験しない人はいないのです。私たちは日々神の祝福を頂いて過ごすのです。「これも神の恵み!」「これも神の救い!」、私たちの一週間がそうでありますように!

9月19日のみことば

「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ8:38)

「わたしとわたしの言葉」とは十字架のことです。十字架は当時の人々には愚か、無力、呪いでしかありませんでした。しかしその十字架の中に「神の力、神の知恵」(Ⅰコリント1:18、23)を見出したパウロは「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と断言したのです。「主イエスの十字架はわれらのほこり」(讃美歌21-299番)。

9月18日のみことば

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マルコ8:36)

「物質的な成功を求めての絶え間ない努力」、にもかかわらず死が訪れます。この死に対する解決がなければ人の不安は解決しません。「これ以上の怖れがあるだろうか/死ぬるまでに/死をよろこび迎えるだけの信仰が出来ぬこと/これにました怖れがあるだろうか」(八木重吉)。私たちの生と死をしっかり支えてくださる神の御手への信頼と感謝!

9月18日のみことば

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)

「福音のために自分の命を失う」とはどういうことでしょう? 殉教の死を遂げることはできないし、また今の日本ではする必要もないことです。しかし時間はわたしの命の一部です。私が自分の少しの時間を喜んで福音宣教のため、キリストのため、隣人のために用いるなら、それは小さいながら自分の命を捨てること、小さな殉教ではないでしょうか。

9月16日のみことば

「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(マルコ8:34)

これは主イエスに従おうとする弟子たちと群衆への教え。「自分を捨て」とは主体性を失うことではありません。自分の都合や利益をいつでも最優先しようとする生き方のことであり、「自分の十字架」とは主が私たちに託された課題のことです。主はゲッセマネの園で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。