信仰生活ABC

問8:それでは、私たちは個人としても人類としても、生きる希望は残っていないのですか。

答:いいえ、決してそうではありません。私には、また「見よ、私はきょう、あなたの前にいのちと死との道、幸いと災いの道をおく」(申命記30:15、19、エレミヤ21:8)という、「静かな細い声」(列王記上19:12)がひびいてくるのです(申命記30:15~18、ヨシュア記8:34、エレミヤ21:8)。

私たちの希望の根拠は、人の言葉ではなく神の言葉にあります。神の声は「静かな細い声」として私たちの心に聞こえてきます。決してボリュームいっぱいに拡声された声としてではありません。聞くことを求めつつ聖書を開く、祈りつつ繰り返し聖書の言葉に心をむける人にのみ聞こえてくる声です。

以前こんな話を読みました。事業に行き詰っていた人が、かつて教会に行っていたことを思い出し、埃だらけになった聖書を本箱から取り出しました。彼は「神さま、今私が聖書を開きますので、必要な言葉をください」と念じつつ聖書をパッと開きました。するとそこにあったのは「ユダは・・・首をつって死んだ」という言葉でした。彼はぎょっとし、「神様、これは何かのお間違いでしょう。もう一度やります。よろしくお願いします」と言って、再び聖書をパッと開きました。すると「行って、あなたも同じようにしなさい」とあったのです。彼は聖書を読むのをあきらめました。

読み方が間違っています。都合がよすぎます。使徒言行録17章にはベレアの人々のことが書いてあります。「(彼らは)素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた」(17:11)とあります。このような読み方をする人の前に「いのちの道」「さいわいの道」が開かれてくるのです。

私は大きな課題に直面しにっちもさっちもいかないと思える時、右往左往することを止めます。神の導きを求めて静かに聖書に向かいます。黙想します。次の日もその次の日もそのような時間を持ちます。そしてある日、心の闇に光がさしてくるような気がします。一つの聖句と共に「きっと大丈夫!」という確信が沸き起こってくるのです。これは神が私に与えてくださる希望であると確信します。神の言葉、聖書こそ私の希望の源なのです。このようにして私は様々な課題を乗り越えてきました。あなたにとっても聖書は希望の書だと思います。

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