信仰生活ABC

信仰生活ABC(19)

2016-03-11

問 しかしそれでは自分勝手に解釈するおそれがありませんか。
答 あります。ですから教会で聞く必要があるのです。

新約聖書のペトロの手紙Ⅱ1章20節に「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」と記されています。きっと当時もそういう人がいて、信仰の道を踏み外してしまったのでしょう。山に登るならガイドが必要です。健康を回復したくて薬を飲むなら医師や薬剤師の指導のもとに飲むべきです。いくら良い薬だからといって自分勝手に飲んだら、かえって害になるでしょう。聖書を読む場合も同様です。

使徒言行録8章26節以下に、フィリポとエチオピアの高官の出会いの話が記されています。「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねるフィリポに高官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答え、フィリポが彼のために手ほどきすることになります。

手ほどきが必要です。しかし用心してほしいのは、自宅を戸別訪問して「聖書を一緒に学びませんか」と勧誘する「エホバの証人」という団体は避けてほしいと思います。私たちの教会が特別集会のチラシを作る場合、「エホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、統一原理、新天地とは一切関係ありません」と記しています。他の正統的な多くの教会も同様に記しています。せっかく聖書を学ぶのでしたら、オーソドックスな教会での学びをお勧めします。あなたの学びに神の祝福をお祈りします。

信仰生活ABC(18)

2016-02-29

問 聖書は全部読んでよく分からなければなりませんか。
答 それは、とうといことですが、たいへんなことです。そして知的にいくらわかったつもりでも、「聖書も神の力も知らない」人々がいます。他方今日まで、聖書一句によって、新しく生まれ変わった人々もたくさんいます。

18才の頃聖書の通読にチャレンジしました。通読がとても楽しくなって4回続けました。口語訳、文語訳、そして新改訳、そして再び口語訳。その時は心に響く箇所を求めて読みました。分からない箇所はいずれ理解できる時が来ることを期待しながら読みました。

関西学院大学神学部に学んでいる頃、松木治三郎先生の「聖書一句の人」という言葉にとても慰められ、励まされた思い出があります。聖書を広く浅くより、聖書一句を深く学ぶことの尊さを心に刻みました。もちろんその一句以外は学ばないということではありません。聖書一句が本当に分かった人は次の一句へと当然向かわされるのです。

岩波新書から大貫隆先生の『聖書の読み方』が出ていますが、そこに「聖書をどう読むか 私の提案」という章があります。とても有益ですので目次から抜粋しながらご紹介します。
提案1 キリスト教という名の電車。伝統的・規範的な読み方を相対化する。「不信心」「不信仰」のレッテルを畏れない。
提案2 目次を無視して、文書ごとによむ。文書ごとの個性の違いを尊重する。初めから調停的に読まない。
提案3 異質なものを尊重し、その「心」を読む。
提案4 当事者の労苦と経験に肉薄する。自分の生活だけでなく、書き手の生活の中でも読む。
提案5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる。

 

信仰生活ABC(17)

2016-02-27

問 しかし旧約は、いや新約も、それぞれ遠い昔の人々のためではありませんか。
答 そうです。遠い昔の人々のためでした。しかしまた同時に、すべての時のすべての人のためでした。イエス・キリストは、今ここに在る私たちのうちに起こっている出来事なのです。これが一度限りという言葉の意味なのです。

C.H.スポルジョンという19世紀の英国の名説教家は『主の約束は朝ごとに』の中でこう言っています。「神の約束は、現金と引き換えになる小切手と比較することができよう。その約束は、何か良いものが授けられるという意図をもって、信じる者に与えられる。読んで楽しんだら二度と目に触れないといったものではない。小切手を扱う場合のように、私たちはそれを現実のものとして受けとめるべきである。私たちは約束を受けとめ、それをうそ偽りのないものとして個人的に受け入れる行為を通して、その約束に自分の名前を書き込むべきである。すなわち、それを信仰をもって自分のものとして「受け取る」べきだ。こうして私たちは神は真実であり、特定の約束の言葉を必ず守られると承認することになる。さらに進んで私たちは、確実な約束を手に入れているという祝福が与えられていることを信じ、そのため、その祝福をすでに領収ずみであることをあかしするため、約束の小切手に署名するのである。・・・」。

長い引用になりました。私の祖母は愛用の聖書のある言葉に、「主よ、この約束を信じます」と赤鉛筆で書き込んでいました。聖書の言葉は信じる者に対する約束なのです。主イエス・キリストを通しての救いは、過去の人々のためであり、現在の私たちのためであり、さらに将来の人々のためのものなのです。

聖書を通して主イエスの救いがあなたにもたらされるようお祈りしています。

 

 

信仰生活ABC(16)

2016-02-26

問 それでは、旧約と新約の関係はどうなのですか。
答 旧約は、読む者の心におおいがかかっています。それは、ただイエス・キリストに出会う時だけ、取り除かれます(第2コリント3:14)。旧約は新しい契約を預言し、新しい契約はイエス・キリストによって成就しているからです。しかし間違ってはいけません。新約もイエス・キリストそのものではなく、その弟子たちの想起による証しであります。旧約も新約もいずれも、イエス・キリストにおける一度限りの、神と私たちの交わり・和解・救いの出来事、インマヌエル(神私たちと共に)の真理と恵みを証ししているのです。

旧約は裁きの神を語り、新約は赦しの神を語っていると言う人がいますが、間違いです。言葉の表面だけをみれば、旧約は裁きと思えるのでしょうが、深く読むとそこにも神の愛が満ちていることが分かります。旧約も新約も神の愛と赦しを語っています。そしてそれは神の独り子イエス・キリストにおいて実現するとキリスト教徒は信じているのです。

今私は水曜日の朝の集会で兄弟姉妹方とローマの信徒への手紙を少しずつ学んでいます。先日10章1~4節を学びました。「パウロ先生、よくぞこの素晴らしい書簡を書いてくださいました!初代教会の兄弟姉妹方、よくぞこの素晴らしい文書を保管してくださいました!」と心底そう思いました。パウロ先生はどれほど深い感動をもってこの書簡の一字一字を書き記していったことでしょうか。初代教会の兄弟姉妹は福音の真理を伝えているこの書簡をきっと命がけで守り伝えたことでしょう。

それに比べると、私たちの証の言葉はどうだろうかと反省させられます。神の大きな愛を証ししているこの聖書を感謝して読みたい、熱心に学びたい、そして溢れる喜びをもって伝えたいと願っています。

 

 

 

 

信仰生活ABC(15)

2016-02-25

問 旧約と新約というのは、どういう意味なのですか。
答 旧約は、神のイスラエル人との契約であります。そのしるしとして、イスラエル人を導く神の救いの歴史を語り、また十戒・法をつたえています。さらに預言やさまざまな文学によって人々が神のことばを聞いて、伝えています。新約は、そのすべての終りとして、またその成就として、イエス・キリストによる新しい契約を証ししています。

「約」は「契約」の意味です。辞書を見ると、①二人以上の当事者の意志表示の合致によって成立する法律行為。②約束を取り交わすこと。③ユダヤ教・キリスト教に特徴的な思想で、救いの思想に関して神と人間との間で交わされた約束。モーセを仲介者としてイスラエル民族に与えられたものを旧約、キリストの十字架上の犠牲を通じてなされたものを新約という、と説明されています。この③の意味です。

しかし旧約にしろ新約にしろ、この契約は神の一方的恵みによるものです。私たちの行いが立派だったから神は契約を結んでくださったのではありません。イスラエルの民は弱く小さく不完全であったにも関わらず神はこれを愛し、救い、祝福の約束を与えてくださったのです。現代に生きる私たちも全く同様です。ですから契約を与えられた私たちには感謝の他ないのです。

契約という時、もう一つ大切なことがあります。それは誠実であるということです。神はご自分が与えた約束に対しどこまでも誠実であられます。問題は私たちの方です。気まぐれではいけません。信仰は気まぐれから最も遠いところにあるものです。恵みの約束に対し誠実でなければなりません。バプテスマを受けてクリスチャンになった人は、生涯かけてキリストに従うのです。時が経てば経つほど恵みの豊かさが分かるようになります。「これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:33)。

 

 

信仰生活ABC(14)

2016-02-13

問 聖書は単に古典に留まるでしょうか。
答 いいえ、今日までこの聖書を読んで、ほんとうに分かった人は、こころを入れかえて新しく生まれ変わり、神に帰りました。すなわち聖書においてイエス・キリストに出会った人は、この世とともに失われた人間として見出され、この世の定めから自由にされ、死よりいのちへと導きだされて、神を知り、あがめ、愛しました。また自分を知り、互いのまじわりに生きようとし、事実たがいの愛に生き始めました。そこで、このような人々にとって、したがって教会において、聖書は、人間の言葉において生きて語りかける神の、霊のことばとなっているのです。こうして聖書は私たちの信仰と生活の源泉であり、また規範であります。これが、正典という意味なのです。

聖書は古典です。しかし古典に留まりません。読む人の人生を変革させる力を持っている神の言葉です。聖書は私たちの心を神に向けます。聖書は私たち自身の存在の尊さに気づかせます。聖書は隣人を共に生きるべき存在として発見させます。聖書は私たちの信仰の源泉であり、生活の規範です。聖書はあなたの心に信仰と希望と愛を形成する動力なのです。そのようなものとして聖書をお読みになることを心からお勧めします。

信仰生活ABC(13)

2016-02-06

問 聖書とは何ですか。
答 聖書は、旧約39巻、新約27巻、全部で66巻よりなる、古代の異民族の人々の書いたさまざまな文書集、今日までそして今も読む値打ちのある書物すなわち古典であります。

聖書は「古典」であると言います。ひょっとすると、皆さんの中には「聖書は古典以上のものだ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。確かにそのとおりで、そのことについては次回の問答で取り扱うことにしています。しかしここではひとまず「古典」ということから考えてみましょう。

古典とは何でしょう? それは「今日までそして今も読む値打ちのある書物」のことです。書店には日々新たな本が並んでいます。その宣伝文句は「これを読まなきゃあなたは時代遅れ!」と言わぬばかりです。しかし一年も経てばみんなから忘れられてしまう本も多いのではないでしょうか。それに比べると、これまでも多くの人に読まれ、読んだ人に大きな感化を与え続けてきた書物、時を超えて価値を持つ書物もあり、そういう本に親しむことはとても大切だと思います。

大岡信氏が『ことばの力』という本の中で、万葉集の歌は長い時空を超えてようやく読む者の心に届いたような重みがある、と言っておられました。聖書の言葉にもそのような重みがあります。私たちの心にドスンと響くものがあります。そういう言葉との出会いを経験したいものです。

 

信仰生活ABC(12)

2016-02-05

問 聖書は、とっつきにくい、と言われますが、あなたはどうですか。
答 私にもとっつきにくいです。しかし私はとにかく自分で読みます。ありのままの現実のなかで自分の心を開いて求め、その語りかけを聞こう、また聞くことができる、という期待をもって読んでいます。

「とっつきにくい」のは事実です。しかしこうも言えないでしょうか。とっつきやすいものは飽きやすくもあり、とっつきにくいものは実は内容が高いと。「読書百遍義おのずからあらわる」とも言います。とにかく諦めないで読んでみてくださいね。

読み方も大事です。「ありのままの現実のなかで自分の心を開いて求め」。私たちの毎日は課題の連続です。その課題を克服するための励まし、勇気、意欲を与える言葉、あるいは迷いの中で進むべき道を求めている時も決断を促すような言葉を求めます。その求めこそ聖書を読み続ける理由になります。

ルターは「どのようにして聖書を読むか」という問いに対して、試練を挙げています。「これは試金石である。それはあなたに、神のみことばがいかに正しく、いかに真実で、いかに甘く、いかに愛すべきで、いかに力強く、いかに慰めに満ちたもので、それは至高の知恵であることを知らせ、理解させるばかりか、そのことを体得させる:」と述べています。

どうぞそのような期待をもって聖書を読んでください。きっとあなたの生涯の同伴者となることでしょう。

信仰生活ABC(11)

2016-02-04

問 あなたはどこにイエスを求めて行くのですか。
答 やはり聖書に行くよりほかありません。自分で聖書を読みまた教会でこれを聞くのです(ヨハネ5:39)

イエスについて書いた本はたくさんあります。例えば、バーバラ・スィーリングの『イエスのミステリー』がNHK出版から翻訳出版された時、キリスト教が書き換えられるだろうというような宣伝ぶりでした。また最近、『ユダの福音書』が出版された時、その帯には「歴史の闇に封印された『禁断の書』。1700年ぶりに復元・出版 キリスト教史を揺るがす衝撃の発見。世界中で大論争を巻き起こした異端の聖書。イエスが語った秘密の教え」とありました。こういう言葉は私たちの関心をグイッと惹きつけます。しかしイエスについて知りたいと思うと、やはり私たちは聖書を開く以外に正しい道はないのです。

しかし一人で聖書をコツコツ読んでも、なかなか理解しがたく、あるいは森の中で道を見失うような経験をします。高い山に登ろうとするなら、訓練を積んだ経験豊かなガイドが必要です。聖書を読むのも同じで、やはり教会の交わりの中で聞くことが不可欠です。

しかしどの教会でも良いと言うわけではありません。折角時間と労力を使うのですから、あまり偏った教派や、異端と言われるような教派の人から手ほどきを受けるのは感心できません。正統的な教派の牧師から指導を受けることをお勧めします。

 

信仰生活ABC(10)

2016-02-03

問 それではあなたは、聖書から聞いて信じ、いつも神と共にあるのですか。
答 いいえ、私もやはりそこから落ちて失われているのです。この世の混沌の中に巻き込まれ、無力で虚しく、罪を犯しています。ただ私はいつも聞いて信じたい、神と共にありたいと切に願っています。「無信仰な私を助けてください」。

「はい、いつも…」と答えたいですが、「いいえ」と正直に答えています。そして「いつも聞いて信じたい」「神と共にありたい」と正直に願っています。信仰生活においてはこのような正直さこそが大切です。神はそのような心を尊ばれますから。

人に対して自分を殊更立派に見せようとするのは、他の羽根を自分の体にくっつけた愚かなカラスのようです。ありのままでいいのです。神に対して「わたしはあなたの祝福を受けるに値する人間です」と言うのは傲慢でしょう。誰よりも自分自身がそのことをよく知っています。謙遜な心で祈る者でありたいです。

「無信仰な私を助けてください」。これはマルコ9:24の言葉です。汚れた霊につかれた息子の救いを願った父親の言葉です。彼は、自分には信仰は少しはあるが、もう少し足りないと言っているのではないのです。「無信仰な私」「信仰のない私」を助けてくださいと言っているのです。人生の課題に取り組むには、少々の信仰、飾り物程度の信仰では間に合わないでしょう。本物の信仰でなければ…。それは主イエスによって与えられ、支えられ、増し加えられるものなのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。

今日もご一緒に祈りたいですね。「信仰のない私をお助けください」。

 

 

 

 

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