〇マルコによる福音書 10章46~52節
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
〇説教「 イエスのまなざし~叫び求める者へ 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。
本日の礼拝は、花の日礼拝として守ります。毎年花の日礼拝では、お花を持ち寄り、自然の恵みに感謝すると共に、礼拝後にはそのお花を持って病気の方々をお見舞いしたり、警察署や消防署など、公の働きのためにご奉仕してくださっている方々を慰問したりしてきました。今年はお花で彩ることはしていませんが、私たちはそれぞれ神が創造した自然の恵みの一つであるいのちを今日、この場に持ってきています。この恵みに感謝して、その豊かさを分かち合う礼拝としていきましょう。
ところで皆さんは、「花の日」がどのように始まったかをご存じでしょうか。実は花の日はキリスト教の暦にちなむ記念日ではありませんが、アメリカのキリスト教会の教会学校から始まったそうです。私は詳しくは知らないのですが、6月の第2週は、アメリカで夏の花々が咲き始める季節のようですね。あるとき、子どもたちが色とりどりの鮮やかな花々を教会に持ち寄って礼拝堂に飾り付け、大人と共に礼拝を守りました。これが「花の日」の始まりの出来事です。その情景を想像するだけで、カラフルに彩られた礼拝堂は、厳粛さというよりも自然の花々の彩りや香りに満ちていたことが考えられます。そしてそのような時、私たちは自然と創造主なる神さまに讃え感謝することになったのだと思います。
そして礼拝後には、そのお花を持って病気の方々などをお見舞いし、あるいは公の働きをされている方々へ感謝を表すのですが、それは私たちが日々多くの皆様の守りと支えの中で生かされているとことへの感謝の応答ということになります。ですから花の日の大切なことは、私たちが神がお造りになった多くの自然の恵みの中で生かされているいのちであることを感謝し、その感謝を多くの方々と分かち合うことであると言えるでしょう。
今日の西南学院教会の礼拝でも、小学科のみなさんが讃美歌を歌ってくださいました。皆さまの素晴らしい歌声に心より感謝します。子どもたちの賛美もまた神さまの豊かな恵みであります。また教会学校教師による子どもメッセージも行われました。これはそれぞれの賜物を用いて主を賛美し、いのちの豊かさを分かち合っていることに他なりません。そういう意味で私たちの礼拝は、まさに花の日礼拝です。ですから、私たちもこの恵みに応答してまいりたいと思います。
イエス・キリストはマタイ福音書6章でこう言っています。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。実はこの野の花、野の草というのは、そこらへんに生えている名もなき花々のことだと言われます。他の花々と比べると特に取り立てて美しいわけでもない花です。あるいは無価値のように見える花とも言えるでしょう。
しかし、神はそれらのお花を見て、イスラエル絶頂期の王ソロモンの輝きよりも勝ると言うのです。それはおそらく、その花々がそれぞれ自分の花を咲かせることに一生懸命だからだと思います。神さまは、その野の草でさえそのように装ってくださると言います。つまり、神はどんな命もそのままで愛してくださる方であり、その人らしく生きていくことを喜び願っていると言うことなのです。まして私たちにはそれぞれに大切な恵みを神さまは私たちにお与えくださっています。私たちは与えられている神の恵みに応え、私たちの花を咲かせてまいりしょう。神さまはもっとも小さな命さえ喜んでくださる方であるということを、まずお伝えしておきたいと思います。
さて、今日の説教題は「イエスのまなざし~叫び求めるものへ」と付けさせていただきました。今日のこの箇所も花の日の文脈の中で読んでいくことができます。つまり、イエス・キリストは今日の登場人物の中で最も小さくされていた盲人バルティマイの叫び声に心を留めてくださり、その言葉に耳を傾けてくださる方であるということです。
文脈を確認してみましょう。イエスはエリコの町に入り、いよいよ聖都エルサレムに向かって旅立とうとしておりました。エリコという町ははエルサレムから20㎞ほど離れている町で、ヨルダン川西岸地域にあります。ですから目的地としていたエルサレムまであと一日の距離であったと言えるでしょう。もうゴールが見えている、あと少しだ。そういう状況になると、早くゴールにたどり着きたいと言うのが私たちの心理ではないかと思います。このときイエスさまの周りには12弟子だけではなく、大勢の群衆がいたとあります。そしてこの時期、エルサレムではイスラエルの最も大きなお祭りである過越祭が行われていましたので、エルサレムではどんなお祭りが行われているのだろうか。早く行きたいという思いに駆られていたとしてもおかしくはありません。
しかし、そういうイエスさま一行の足並みにストップをかけたのが、このバルティマイの存在でした。彼がどういう人物であったのかというと、盲人ということ以外はよくわかりません。名前がバルティマイですからティマイの子という意味の言葉です。ティマイが誰かはわかりません。しかしこれは当時ユダヤ人ではよくある名前の付け方でした。例えばシモン・バルヨナという言い方があります。これはヨナの子シモンという意味です。「〇〇バル××」という言い方で××さんちの〇〇さんという言い方がされていたのです。例えば聖書には出てきませんが、マリアの子イエスは、イエス・バル・マリアムという言い方になるのだと思います。しかし不思議なのは、彼のファーストネームが紹介されていないことです。お父さんの方が有名だったということもあるかもしれませんが、もしかして彼は、個人的な名前さえ与えられなかった状況で育ったという背景があったのかもしれません。
もちろんこれは一つの想像にすぎません。しかし彼は座って物乞いをしていたとありますので、恐らくは恵まれた状況にはおられなかったということは考えられます。そういう意味で、彼らは私たちが想像つかないような様々な苦しみの中にいた可能性もあるのです。そんな彼はまさに救いを求めていたと言えるでしょう。そして、ついに彼はイエスがエリコの町に来ていることを知ったときに叫び始めました。「ナザレのイエスよ、私を憐れんでください」。
彼は何故叫び始めたのでしょうか。周りの者はそれを聞いて、彼を叱りつけ、黙らせようとしました。「多くの人」が彼を叱りつけ、黙らせようとしていたとあります。一部の人ではありません。大勢の人に取り囲まれていたのでしょうか。わかりませんが、このしかりつけと言う言葉は、厳しく命じる、警告するという意味もありますので、彼はおそらく周囲の相当な圧力・空気によって黙るようにさせられたのでしょう。ところが、彼はそれでも叫ぶことをやめませんでした。
周りの人が彼の叫びを留めようとした理由。それはイエスさま一行がもう出かけようとしていたからですし、ここで引き留めて時間を取ってしまうのも良くないという思いがあったでしょう。さらに言えば、ここで最も小さい存在のバルティマイなんかにイエスさまの手を煩わせたくなかったというような人の思惑も当然あったと思います。「おまえ、黙っとけ」みたいな。ところが多くの人が彼を叱りつける中、イエスさまのみが彼の言葉に耳を傾けるのです。しかしこれがイエスとバルティマイの人間的な出会いになりました。というのは、目の見えないバルティマイにとって、自分の叫び声を聞いてその言葉に応えてくれるということが、直接的かつ人格的な出会いになるからです。そうでなければ彼は出会うことができなかったのです。一方的な言い方をしても彼の心には響きません。言葉による対話ということが大切だったのです。イエスは言います。「あの男を呼んできなさい」。周りの人は言います。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。私は何故イエスは自分から彼のところに行かなかったのかということが少し疑問に残ります。もしかして言葉を通して彼を呼ぶ、彼の言葉に応えるということが大切だったのかとも思います。わかりませんが、イエスさまの声を聴いてバルティマイが上着を脱ぎ捨て躍り上がったということは、この出来事が、彼の心にどれほどの喜びの出来事であったのかがわかります。
恐らくは彼は自分の心の内をこれまであまり話すことができなかったのではないでしょうか。いつも言われることを行うことしかできず、自分の声なんか聴いてもらえないと思っていたかもしれません。しかし、当のイエス・キリストだけは、彼の叫び声に心を留め、彼の言葉に耳を傾け、彼の心に触れたのです。イエスは最も小さいと思われている者のいのちをお見過ごしになる方ではありませんし、その最も小さな声に耳を傾ける方であるからです。
イエスは彼に尋ねます。「何をしてほしいのか」。彼は答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。彼のこの言葉は真実であったと思います。しかしこういう彼の言葉は、おそらくこれまでは拾われてこなかったのでしょう。「そんなことは無理だ」と一蹴されて終わっていたのではないかと思います。次第に口にすることさえしなくなっていたのではないかとも思います。しかし、イエスはその願いを聞きこういいます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして盲人はすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従ったのです。
不思議な話だと思います。イエスはバルティマイのどこに信仰を見たのでしょうか。彼の行動の中でもし信仰と認められるものがあったとしたら、彼がイエスに向かって叫び続けたという一点しかありません。つまり彼はあきらめず、イエスが自分の方を振り向いてくれることを期待して叫び続けたということです。このバルティマイの姿から、私たちは問われます。私たちは叫び続けているでしょうか。あきらめてしまってはいないでしょうか。或いは叫ぶなんてカッコ悪い、もっとスマートなやり方でイエスに振り向いてもらおうとするでしょうか。そういうこともあるかもしれません。
しかし、叫ぶと言うことが、実は一番大切なのです。実はこの町はエリコの町です。この町は世界最古の城塞都市と呼ばれる町であり、旧約聖書によると、出エジプトのリーダー、ヨシュアによって陥落した町です。ヨシュアの作戦は、神の預言に忠実に従い、町の周りを歩き、鬨の声をあげることだけでした。その時、堅固な城壁は崩れ、城は陥落したのです。この物語が史実かどうかは不明ですが、「信仰」と「信じて神の言葉に従うこと」が困難やあらゆる障壁を克服することを教えています。
「鬨の声」というのは、「人々を鼓舞するために多数の人々が一斉に叫ぶ声」のことです。残念ながらバルティマイには自分と一緒に叫んでくれる相手はいませんでした。しかし、この抑えられてもあきらめず叫び続けることで、その心の思いはイエスに届き、そして人々の心の垣根を取り払うことにつながったのです。周りの人々からすれば、はやくエルサレムに行きたかったところだと思います。しかし、イエスさまの姿がバルティマイに寄り添われる姿勢に、ゴールに行くことよりも大切なこと。神の御心がなされることに改めて心を留めることができたのではないかと思うのです。
イエスは、彼の叫び声をどのように聞いたのでしょうか。おそらくは、「求めよ、さらば与えられん、探せ、そうすれば見つかる。門をたたけ、そうすれば開かれる」というイエスの教えを、まさに生きていた彼の魂の叫びのように響いたのではないかと思うのです。
この時バルティマイが見たものは何でしょうか。それは、神が弱く小さく貧しき者の叫び求めに耳を傾けてくださる方であるという希望なのではないでしょうか。