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2024年8月11日説教全文「打ち捨てられた石が、隅の親石に」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 12章1~12節

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

〇説教「 打ち捨てられた石が、隅の親石に 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。日本全国で猛暑日が続いています。皆さん気を付けながら生活されていると思いますが、特にこの時期は、礼拝堂の中でも水分補給をしながら、無理なくお過ごしくださいますようにお願いします。今週も皆さまの心と体のご健康が守られ、日々の営みの上に主の恵みと導きがありますようにお祈りします。

先週、私は休暇をいただき、以前住んでいた神戸に行き、2年前にお別れをした神戸教会の方々と懐かしく交わりをするときが与えられました。その後新潟妙高に行き、93歳の祖父やその他の家族と共に大切な時間を過ごして参りました。休みのたびに思うことなのですが、休むことはもちろん大切で感謝なことなのですが、実は私にとっては、教会を不在にすることに不安と言うかそわそわする気分になります。しかし今回、教会員の皆さまが礼拝の守りのために祈り支え、かつ私たちのことも祈りに覚えてくださっていたことに、安心というか平安をいただくことができました。私は皆さまと共に礼拝を守ることは出来ませんでしたが、この教会での礼拝を覚えてお祈りをしておりました。そこで感じたことがイエス・キリストのこの言葉です。「神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」。(ルカ17:20-21)実は神戸教会の方々の中にも、毎週のこの教会の説教動画を見てくださっている方がおられます。このような関係性の只中に主が共におられる。離れていてもここに神の国の広がりがある。このように主が私たちを結び合わせてくださっていることを、改めて感謝したいと思いました。

本日私たちは平和主日として礼拝を守っています。先ほど子どもメッセージでお話しした通り、8月には平和について思いを深めます。先週6日の広島の原爆記念日、9日の長崎の原爆記念日。そして今週15日の終戦記念日。6月23日の沖縄慰霊の日も含めて、これらはすべて戦争の最も悲惨な出来事を記念しています。「二度と同じ過ちは繰り返さない。絶対に戦争をしてはならない」。この言葉をわたしたちは思い起こし、また心に刻まなくてはなりません。

この時期、戦争反対の訴えを聞きます。しかし残念ながら、戦争は外部の声では止まりません。そこにはやはり色々な理由があるからです。それでは現実的に、戦争を終えるための、或いは戦争をなくすための最も良い方法は何でしょうか。それは端的に言えば、戦争が起きる原因を取り除くことでしょう。例えば、戦争が起きる原因は色々とあります。侵略戦争は、他国にある資源や利権を狙って起こる戦いです。防衛戦争は自衛のため、或いはその地域に住む人々を守るための戦いです。独立戦争や民族戦争は、主権、或いは平和を巡る戦いです。宗教戦争と呼ばれるものもあります。しかし本当の宗教は、それぞれの正義を巡る争いを引き起こすものではなく、それぞれの平和を作り出すものです。ですから宗教戦争とは、宗教同士というよりもそれを隠れ蓑にして自分たちの野心を成し遂げたい人々が引き起こす戦いです。どんな戦いにも正統性が掲げられます。どのような立場であったとしても自由と正義、平和を作るためと言えるからです。しかしながら戦争がもたらす結果はいつも悲劇です。戦い自体には勝っても、勝利者は存在しないのです。何故ならば戦争は、すべての人の命を奪い、命を削り、建造物を破壊し、生活を脅かし、痛みを享受するだけのものであるからです。私たちは「勝利」というものでそれを覆い隠そうとしているだけなのです。戦争は起きてしまったら勝者はいない出来事なのです。だから私たちは「戦争という出来事」と戦わなければなりません。その唯一の方法は、全ての人々の平和を実現することです。これは戦争することより、非常に難しいことです。何故ならばこれには一つの世界の中で、自分たちだけではなく、「わたしたち」という属性とは異なる属性を持った他者と共に生きていくということを表しているからです。しかし、他ならぬ神がそれを望んでいるのです。神が望んでいるのは自分たちの正義を振りかざすことではなく、神の正義を行うこと。すなわち愛を行うことなのです。

「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。(マタイ5:7)と教えたイエス・キリストの最も有名な譬え話は「善きサマリア人の譬え」です。ある人が旅の途中、強盗に襲われ倒れていました。ある人とは、民族も宗教も性別も年齢も一切不明の者、つまり「自分とは関係ない旅人」です。その人が半殺しにされて倒れていた時、その人に近寄って助けたのは、神に仕える立場を持つユダヤ人の祭司やレビ人ではなく、通りがかりに立ち寄ったサマリア人でした。祭司やレビ人は恐らくその人が自分の知り合い、あるいはユダヤ人という共通の属性を持っていたら助けていたのだと思います。しかしこの物語は、自分と違うというそれだけのことで、瞬く間に他人に無慈悲になれる性質を私たちが持っていることをつまびらかにしています。サマリア人がその人を助けた理由。それは深く憐れむという個人の内的な動機によるものでした。イエスは言います。「行って、あなたも同じようにしなさい」。つまり大切なのは、民族、国籍、思想信条、宗教などの共通項ではなく、人として、自分事としてその人にどのように心を寄せるか、どのように関わっていくかということだと語ります。言い換えれば、そういう私たちの属性に目を向けるのではなく、色々な違いがあることを前提に人として出会って行くことだと言えるでしょう。そしてそれはだれか特定の人がやればよいことではなく、私たち一人一人が出会いの中で行っていくことが望まれているものなのです。私たちはこの「隣人愛」に心を留めたいと思います。

聖書の内容に入っていきましょう。この聖書個所は前回7月28日の礼拝でお話しした内容の続きです。時は過越祭の時期、場所はエルサレム神殿。多くの人が巡礼に訪れる時に、イエスと祭司長、律法学者、長老との問答が始まりました。「あなたは一体何の権威でこのようなことをしているのか。誰がそうする権威を与えたのか」。この問いに、イエスは答えず、逆に質問をしています。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」。そうしたらあなたたちの問いに答えよう」。残念ながら彼らは、その問いに答えることができませんでした。何故かと言うとこう書かれています。「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……」。つまり、彼らは人の評判を恐れて、自分たちの思っていることを話すことができず、「わからない」と答えることしかできなかったのです。真理に立つものは、人の評判を恐れることはしません。何故ならば真理を伝えると言うことは、その物事、たとえば人の噂や人が大切にしている伝統的に守って来たものの本質を問い続け、常に本質に立ち返り続けていくということであるからです。

それに比べて人の評判を恐れる者は、本質的なことよりも大衆受けする事柄を大事にし、あるいは著名な人の言葉などで自分を高めようとする者です。そういう人はその教えに乗っかるだけで自分でその教えを問い続けることをしていなかったのかもしれません。ですがこれは権威以前の問題であり、彼ら自身が判断の根拠にしている部分が神に由来するものでなかったということを明らかにしています。これがまさしく人の罪、的外れに生きること。愚かさだと思います。

実は今日の聖書個所はそういう人々、神殿に権威を借りた祭司長、モーセの律法をただ文字通り信じている律法学者、まさに長年そのように生きてきた長老たちに向けて語られています。イエスはこう譬え話を語ります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」。これはぶどう園を最初から自分で手入れをして丁寧に守り育ててきたということです。

収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った」。これには農園を貸し出す際の契約があったことが前提としてあります。つまり、農夫たちはその農園を管理し、その収穫の一部を主人に送ることになっていたのです。

ところが続けてこうあります。「だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」。

実にひどい話です。この農夫たちは交わした契約の内容を反故にするどころか、主人の善意を踏みにじり、農園に我が物顔で居座っているのです。

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」。

もう何と言ったらよいかわからない。怒りがこみあげてくる出来事だと思います。農夫たちは最後に送られてきた人物が主人の愛する一人の息子であったことが分かっていました。ところが彼らは主人の気持ちを推しはかることなく、むしろこいつさえ殺してしまえば、農園は自分たちのものになるというあまりにも身勝手で、そして的外れな理屈でこの息子を殺したと言うのです。何故こんな相手に大切な息子を送ったのか、危険性を顧みなかったのか、ということはあると思います。しかし裏を返せば主人の思いには、農夫たちへの信頼と期待がまだあったのです。ところが彼らはその思いに応えようとはしませんでした。

さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」。「仏の顔も三度まで」と言いますが、主人の怒りも頂点に達し、農夫たちは殺され、ぶどう園は他の者、しっかりと主人の期待に応え、契約を守り、管理運営をする人に委ねられると言うのです。

さて、この譬え話を聞いた祭司長、律法学者、長老は、これが自分たちへの当てつけであると感じました。何故、彼らはこれが自分たちへの当てつけであると感じたのでしょうか。

仮にぶどう畑がイスラエルを指しているとすれば、それを借り受けている農夫は神殿体制、律法主義と言うことになります。しかしながら、彼らはその管理責任をさぼり、主人への感謝の思いも持っているようにはイエスには思えなかったのでしょう。事実彼らは神の教えを守っているように見えて、結局のところ自分たちの権威しか見ていない。まさに旧約聖書に記されているように、神が遣わされた預言者の言葉に耳を貸さず、バプテスマのヨハネを認めずにいたわけです。そして神の独り子であるこの私をも殺そうとしている。このイエスの譬え話は、まさに彼らの在り様を貫いていると思います。

しかし私たちは、彼らを批判するだけではなく、もう一つのことを考えなければなりません。それは自分たちの姿です。「ぶどう園」とは、イエスが「私はまことのぶどうの木」と言ったように、イエス・キリストによる交わりであるとも考えられるのです。そうした場合、この農夫たちというのは、誰になるでしょうか。それはわたしたちです。私たちは、この神からの恵みにどう答えているでしょうか。神の言葉にどのように耳を傾け、それに応答して生きているでしょうか。私たちは神の恵みを有難いと思うことなく、かえって当たり前だと思い込み、それは全て自分のものになるかのように考えてしまっていることはないでしょうか。譬え話で出てきた農夫の最大の間違いは、勘違いと思い込みです。わたしたちに与えられているものは全て神のものなのに、自分たちの権利にばかり目が留まっていないでしょうか。私たちは今日も神の言葉をいただいているのに、それを聞かないようにしてはいないでしょうか。私たちは、イエス・キリストに結ばれ、隣人を愛し実を結ぶことができているでしょうか。それとも神の恵みを分かち合うこともせず、かえって神を求めている人々を教会から追い出してしまうようなことはしていないでしょうか。

私たちはこの神の愛、たとえ話の中でいう農地を貸した神の善意を、わたしたちはどのように受け止めているでしょうか。わたしはこの言葉がとても気になるのです。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」。

家を作る者が捨てた石とは必要ないと思われた石です。しかし、その石が隅の親石、つまり建物全体を支える大きな支え石になったのです。これがイエス・キリストです。イエスは祭司長たちに捨てられました。しかし、そのイエスが同じく打ち捨てられたかのように見える者たちの救いとなり、より大きな教会という神の民の交わりを支える土台となったのです。私たちはこの土台に立ち、イエス・キリストの御心を行っていくことが求められているのです。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。この神の愛を改めて受け止め、神の愛を行って参りましょう。

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