〇聖書個所 マルコによる福音書12章28~34節
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
〇説教「 キリスト教の最も大切な教えとは? 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日は4月2日、いよいよ新年度の始まりです。今日は初めて礼拝にお見えの方もおられると思います。また心機一転信仰生活を新たにしたいと思い、礼拝に来られた方もおられるかもしれません。皆さんの新しい年度の歩みの上に主の導きと守りと恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。今日はそんな新しい歩みを始めるにはとても良い日だと思います。何故ならば、今日はキリスト教の記念日の一つ「棕櫚の主日」であり、イエス・キリストの十字架に至るまでの愛を黙想する時であるからです。
「棕櫚の主日」というのは、ガリラヤというイスラエル北部の町々で福音宣教されていたイエス・キリストがいよいよ聖都エルサレムに入られた記念の日のことです。人々はロバの子に乗ってやって来るイエスさまを棕櫚(なつめやし)の枝や葉をもって歓迎したことから、「棕櫚の主日」と呼ばれるようになりました。人々は、イエス・キリストをメシアの到来と受け止めて「ホザナ・ホザナ(我らを助けたまえ)」と歓呼の声を上げ迎え入れたのです。ところがこの日から一週間も経たない金曜日にイエス・キリストは十字架に磔にされ処刑されてしまうことになりました。人々の「ホザナ」の声は瞬く間に「あいつを殺せ、十字架に即けろ」の大号令に変わってしまったのです。
いったいこの間に何があったのかということが気になります。キリスト教会ではそのことを覚えるために、今日からの一週間を「受難週」として守ります。私たちもまたイエス・キリストの受難を覚えたいと思います。本日の説教は「キリスト教の最も大切な教えとは?」と題してお話ししますが、選んだ聖書箇所だけではなく受難週に起きた一連の出来事からお話しします。様々な人間模様が出てきます。ぜひ自分自身はどの立場にいるかということを考えながら聞いていただければと思います。
マルコによる福音書では、イエス・キリストがエルサレムに入られた日、神殿の境内を見回った後にエルサレムから約3kmほど離れたところにあるベタニヤという村で一泊しています。ベタニヤという言葉は「貧しい者たちの家」という意味です。いわば豪華絢爛なエルサレムの闇の部分であり、スラムのような場所だったとも言えるでしょう。イエス・キリストがその翌日、エルサレム神殿でいわゆる「宮清め」を行ったのは、ベタニヤ村の人々の苦しい生活状況と神殿の繁栄ぶりを比べてみて大変悲しまれたからかもしれません。
イエスはこう言っています。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。
だからこそ、イエスは神殿の商売人たちを境内から追い出したのです。これが「宮清め」と呼ばれることになりました。つまりそれは、神の愛はベタニヤ村に暮らしていたような貧しい人々にこそ向けられているし、神殿はそのような者たちの居場所、祈りの家になるはずの場所であるはずなのに、残念ながらそうはなっていなかった。それどころか、むしろそのような者たちが追いやられ排除されてしまっていたことに心を痛め、憤られたのです。イエスの行動は感情的に見えますが、これは言い換えれば心の慟哭、うめき、ユダヤ教の指導者たちへのやるせない思いに他ならないのです。それは言い換えると小さくされた民衆へのイエスの愛、あるいは神の御心そのものであったとも言えるでしょう
この宮清めの出来事によってエルサレムの祭司長や律法学者の中でイエスへの反発が最高潮に達していきました。彼らはイエスを何とかして殺そうと諮り始めます。しかし表立って行動に移すことができなかったのは、群衆がイエスの教えに打たれていたので反発を恐れたからです。つまり彼らは自分たちの信仰、あるいは正義で行動することができず、周りの人々の視線を気にしていたのです。どうして周りの視線が気になるのか。それは後ろめたい思いがあったからに他なりません。事実イエスへの殺意はまた人間的な思いから出てきていたことであったからです。
何とかしてイエスをどうにかしたい。民衆があいつにくっついてしまっている。どうにかしないといけない。そこで彼らがとった行動がイエスが聖書の教えから矛盾しているという言葉を引き出すための問答を仕掛けることでした。イエスは祭司長、律法学者、長老たちから「権威問答」、ファリサイ派やヘロデ派の人々から「皇帝への税金問答」、サドカイ派の人々から「復活問答」を受けます。彼らはご丁寧にそれぞれ立場が異なる人々でありながら、共通の敵であるイエスをやっつけるために協力して言葉じりを捕えて陥れようとしています。しかしイエスはその思惑を見抜いて彼らに返答していくのです。なぜ彼らはそのイエスの逆質問に答えることができなかったのでしょうか。それはおそらく彼らは相手を陥れようとして、自分たちでも解消できていない無理難題をふっかけたからこそ、その問い返しを受けて何も答えられなくなったのではないかと思います。つまり不誠実、ねたみ、人前に出せない後ろめたい気持ちは、真実によって生かされている人には勝つことはできないのです。闇の力は光には勝てないということを覚えたいのです。
私は今回改めてこの箇所を読み返したときに、人の罪深さあるいは愚かさ、ねたみの強さというものの強さを感じました。誰がどう見たってイエスさまがしていることが正しいと思うのに、なんでその人を排除したくなるのだろう。人はどうしてこうも自分を守りたがるのだろう。何故悔い改めをすることは出来ないのだろうか。なんでそのイエスさまの言葉を聞いて素直に信じることは出来ないのだろうか。このような人々の姿を見るとき、なかなか苦しくなります。でもそこにはまぎれもない自分自身の姿もあることを感じます。まっすぐ生きている人。聖書の言葉にしっかり向かい合い、自分の生き方をしている人。愛もあり言葉も立ち、誰からも好かれる人。そんな人羨ましく思いますし、そんな人が自分たちが造り上げた世界に入り込んできたら、すべてが壊されてしまうかもしれない。そんな恐れを抱くのです。
本来ならば、イエスの言葉によって新しい歩みをして行った方が良いのです。しかし立ち帰ること、悔い改めることは難しいことだと思います。何故ならば、悔い改めとは自分の歩みの一部分を直すというのではなく、ゼロからのスタートになることであるからです。それができない人はイエスを排除するしかないのです。しかし、人は果たしてそれで良いのでしょうか。
ここからようやく今日の聖書個所に入ります。そこでその議論を聞いていた一人の律法学者がイエスに問いかけます。「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」。私は彼のこの質問は、非常に面白いと思うのです。何故ならば、これまでの難癖のような質問からすると、非常に的を得た質問であるからです。この質問をした律法学者が誰であったのかということはわかりませんが、おそらくこの律法学者は、これまでの言いがかりを見事に交わして見せたイエス・キリストに驚嘆し、その教えをぜひ聞いてみたいと思ったのではないかと感じられるのです。それは妬みや憎しみによってではなく、本当に前向きで建設的で対話的に話が広がっているように感じられるからです。つまりそれは、彼はその議論の中で感じたことに向き合い、悔い改めていったともいえると思うからです。ここからこの律法学者との対話が始まっていくのですが、最終的にイエスはこの律法学者を評価し「あなたは神の国から遠くない」と言われています。それは、この律法学者の姿勢にポイントがあるのではないかと思います。
「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」皆さんなら、聖書の教えの中で最も重要な掟があるとしたらどれだと思いますか?おそらく一番よく知られている教えがイエス・キリストが語られた「隣人愛」というものだと思います。イエス・キリストがご自分の命を他者のために与えられたように、私たちも自分のために生きるのではなく他の人と共に生きることだということです。事実、今日の聖書箇所ではその第二番目にそれが取り上げられていますし、今日の聖書個所の並行記事であるルカ10章では、「良きサマリヤ人の譬え」が続けて語られています。しかしマルコの個所ではイエスはこう答えています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これがどういうことかと言うと、つまり一言でいえば第一の掟は、私たちの神を神とすることです。神を神とするとはどういうことか。それは言い換えるならば神以外に神を置かないということです。
神以外のものを神としない。神は唯一である。これはごく簡単に言えば、私たちが神ならぬものを神のようにしてしまうことがあることへの忠告です。例えば、先ほどの律法学者たちのことを言えば、「自分たちの正義、自分たちの教え、朗読された律法、語り継がれた言い伝え」が神となりました。だからそれが汚されることを恐れ、神の愛であり御心であるイエスを殺そうとしたのです。これが自分の考えを神とすること、神以外のものを神とすることであります。神ならぬ自分たちの考え、自分たちの律法理解こそ神とする。これこそ人が最も陥りやすい罪(的外れな生き方)であります。
神を神とすることは、聖書の中で語られている神の御心を絶えず追い求めて生きることであります。「聖書にはこう書いてある。果たしてその言葉の真意とは何か」。これが大切です。
イエス・キリストも山上の説教の中で言われました。「あなたがたはこう聞いている。しかし私は言っておく」。まさにその通りです。教えられた言葉をうのみにして信じるのではなく、神の御言葉の意図するところを自ら追い求めて生きて行くこと。これが今も生きて働く神との出会いであり、御言葉に聞いて生きること、第一の掟であり、言い換えれば、これがイエスに従うということであるのです。
私は、イエスがこの律法学者を「あなたは神の国から遠くない」と言われた理由は、彼自身が固定化された言葉や思想だけに縛られていたのではなく、しっかりとその言葉の意味を吟味し、自分で考えていたからではないかと思うのです。そして変えられていくことを恐れず、対話に開かれ、常に真理を求めていた。これが大切だと思うのです。イエスがこの律法学者を評価したのは、そういう部分ではないかと思うのです。もしそうでなければ、この律法学者はイエスの指摘を受けてまた自己弁護していくことになっただろうからです。しかし彼はイエスの問いかけを受けて「まさにその通りです」と共感を示しています。これが大切なのです。
キリスト教の最も大切な教えとは何か。言いかえれば、それは神の言葉を問い、あるいは神の言葉に問われながら、神の言葉に自分の土台を置いていくことです。それが神以外のものを神としないことになります。私たちは伝統的な教え、語り継がれてきた教えを神の言葉のように考えてしまうことがあります。しかし神は生きているものの神であり、今も共に生きている神であるのです。神の忌み嫌われることがあります。それは「口寄せ」つまり「死者の霊に語らせること」であります。(レビ19:31)それはその人の神格化、教えの固定化に繋がるからです。しかしそれは神の言葉ではありません。神は今も生きておられ、私に聞きなさいと言われるからです。
神を神とすること。それは神が愛し創造された自分自身として生きて行って良いということでもあります。「あなたの神である主を愛す」と言うことは、私を私らしく作られた神の願いの通りに私らしく生きていくことであるのです。誰々のように生きる必要、このように生きることが正しい。そんな世界ではないのです。自分として生きることなのです。そしてその思いは二番目の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」に重なってきます。何故ならば、その隣人もまた神が創られた尊い存在であるからです。
西南学院の建学の精神に「Seinan, be true to Christ(西南よ、キリストに忠実なれ)」と言う言葉があります。私はこの言葉は、端的にクリスチャンになると言うことなのではなく、キリストが愛された私たちらしく生きて行くこと。そして、キリストが私たちに願っていることを追い求めて生きて行くことなのです。
受難週、私たちはイエス・キリストの愛、その十字架に至るまでの思い、また私たちの身代わりとなられるほどに私たちに向けられているこの愛を思い改めて受け取っていきたいと思います。今日より新年度の礼拝が始まります。Seinan Gakuin Baptist Church be true to Christ! キリストの土台の元、神の御心を祈り求め、互いに祈り合いつつ、それぞれの歩みを進めていきましょう。