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2022年10月2日説教全文「『隣人になって行きなさい』という招き」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ルカによる福音書10章30~37節

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

〇説教「『隣人になって行きなさい』という招き」

今日の聖書個所は、最も有名なイエス・キリストの「善きサマリア人の譬え話」。キリスト教の「隣人愛」の本質を示す箇所です。皆さんはもうすでに何度もこの箇所を読んだことがおありでしょうし、この箇所の説教を聞いたことがあると思います。わたしもこの箇所を繰り返し読んできましたし、礼拝の中で何回も説教を語らせていただきました。「聖書は語るもの」と言いますが、まさにそのたびに違う気づきが与えられるわけですが、共通して「あなたは本当にこの旅人の隣人になっているか」という問いかけを受けます。そして毎回善きサマリア人のようになることはとても難しいと感じるのです。皆さんはどうでしょうか。イエス・キリストは「行ってあなたも同じようにしなさい」と私たちを招きます。そうであれば、私たちはこの善きサマリア人のように生きているのでしょうか。いやむしろ、私たちの現実は、この問いかけをした律法学者のように、自分は神さまの教えを守るクリスチャンですと言いながら、「それでは誰がわたしの隣人なのですか?」と自分を正当化する毎日なのではないでしょうか。

わたしはこの箇所を読むたびに、できていない自分というものを突き付けられ苦しくなるのです。招きに従えていない自分がいるからです。でも今日改めてこの箇所を読み返したときに、イエスさまが招いているのは「このサマリア人のようになりなさい」ということではなく、律法学者が答えたようにまさに「その人を助けた人」、つまりサマリア人のようにではなくても、その人に関わっていくこと。そのような招きとして読むことが大切なのではないかと感じたのです。

譬え話を改めて読んでいきましょう。ある人がエルサレムからエリコに降っていく途中追いはぎに襲われました。彼は半殺しの目に遭い、持ち物を奪い去られた挙句、そこに放置されました。ところがそこに祭司とレビ人、そしてサマリア人が通りかかりました。祭司とレビ人は通り過ぎていってしまったけれど、サマリア人は旅の途中であるにも関わらず、その人を見て憐れに思い、介抱して、宿屋に連れて行き、自分は旅に出ていくけれど費用がもっと掛かったら帰りがけに払うと言い残して出かけていく。さて、誰がこの追いはぎに襲われた人の隣人になったかと聞く流れになっています。
まずある人が登場します。その人は何者かわかりません。便宜上男性形の言葉ですが、「人、人間」という単語が用いられていますので民族も性別も年齢も宗教も住所も明確ではなく、素性がはっきりしない人物です。そんな「ある人」が追いはぎに襲われます。その人は殴りつけられ半殺しの目に遭いました。恐らく服だけではなく身ぐるみをはがされ、持ち物を全て奪い去られたのでしょう。この半殺しという表現には、もうそのままにしていけばやがて死にゆく状態、救急救命が必要な状況があったことを示唆します。ひどい話だと思います。でもこの追いはぎの姿から学ぶことができます。それは、つまりそのような暴行を行うことができるのは、まさにその人が誰であるかがわからないから、自分とは関係ない人だからこそ、そのようなことが行えたのだろうということです。
そこに祭司とレビ人がやってきます。これは譬え話なので彼らはたまたま通りかかったのではなく、共に神に仕える人として当然その人を助けることが期待されている人々として登場しています。ところが彼らはその人を見たにも関わらず、道の反対側を通っていってしまいました。先ほども言いましたが、その人は助けが必要な状態、放置していてはやがて死んでしまう命です。でも、祭司とレビ人は見て見ぬふりをしていってしまったのです。なぜ彼らはその人を助けなかったのでしょうか。彼らには色々な理由があったと思います。例えば宗教者として大切にしていた教えに、「血に触れてはならない」という教えによって助けることができなかったのではないか。或いは他に抜き差しならない大切な約束があったからとか色々な理由は考えられます。でもこう思うことは、実は私たちが日々そういう人と出会っているときに考えることとほぼ同じだと思います。それは、何かの事情があるから自分にはできないという理由付けです。

もちろんその人のことをかわいそうには思うでしょう。でもその思いを本音で言えば、関わると面倒なことになりそうだ。何か事情があったのかもしれないから関わり合いになりたくない。知っている人ならともかく私が関わるのは嫌だ。それに自分には力もないし、何もできない。誰か他の適切な人がきっと助けてくれるだろう。そう、まさに私たちもまた目の前に困っている人がいた時にも、祭司がやってくれるさ、レビ人がやってくれるさと考え、見て見ぬふりをして行ってしまうことがあるのではないでしょうか。でも、その姿勢は直接手を下さないにしても、その人は自分とは関係ないという選び取りの中でその命を見過ごしにすることにおいて追いはぎと変わらないのかもしれません。
イエスさまが譬え話の中でサマリア人を登場させたのは、そんな私たちのためであったと思います。サマリア人とは、ユダヤ人たちとは色々ないきさつがあって仲が悪い間柄として描かれています。しかしそんなサマリア人が、誰かもわからない、どんな理由があったかもわからないこの人を憐れに思って、これはまさに自分自身の事柄として思わざるをいられないような中で関わっていくのです。もちろん、彼にもまた関わらないでいられる明確な理由がありました。彼は旅の途中でしたので、早く行きたい気持ちもあったのでしょう。旅の途中だから適切なケアができない。責任を持てないということもあったと思います。費用の問題もあります。旅の途中ですし十分なお金を持っていたわけではないでしょう。しかし彼はその限られたお金を使ってでもその人を助けようとしたのです。
しかもその人がしっかりと介抱を受けられるように道筋を立てて言っています。これは彼を助けただけではなく、彼のその後のことも全てケアしたと言う意味でお見事と言うほかありません。
ですから私は隣人とは誰か。それは誰が隣人かどうかということではない。その人が何者であるかも関係なく、あなたが心を動かされて出会っていく人が隣人になるのであるということを受け止めてきましたし、そして「行って、あなたもの同じようにしなさい」と言う言葉の通り、私もそういう風になりたいと思いましたし、そのようになることをイエスさまは願っているのだと思いました。

しかしながら、実際にはそこまではハードルが高く、できない自分がいるのです。みなさんはどうでしょうか?イエスさまはあなたがたもサマリア人のようになりなさいと教えているのでしょうか。それができればこしたことはないわけですが、実際にはできないのです。勇気も出ません。どうしたらよいのだろう。そのようなことを考えながら、今回この話を読んでいたのですが、私は改めてあることに気付きました。それは、実際的なケアはこのサマリア人はしていないということです。私はこれまで、サマリア人が彼に関わることすべてを行っていると思っていました。だからこそ難しいと思っていたのですが、よくよく読んでみると、実はこのサマリア人は最初の出会いとつなぎしかしていないのです。実際にこの人のお世話をしたのは、宿屋の主人であるのです。でも、その主人がいたことによって、この人は介抱を受けることができるようになったのです。言い換えれば善きサマリア人の譬えは、そのサマリア人の思いを受け継ぎ、彼の隣人になったこの主人がいて初めて成立するのです。
私、宿屋の主人の気持ちになって考えてみました。恐らくこのサマリア人がこの人を連れてきた時、びっくりしたことでしょう。「どうしたんですか?この人、大変な状況じゃないですか。え、あなたの知り合いじゃないんですか?じゃあこの人はどなたですか?わからない?それならこの人を今後、どうするおつもりですか?え、あなたこれからこの人を置いて旅に出かけてしまうのですか?ほんとですか?じゃあこの人を誰が見るのですか?え、私ですか?いやいやそんなわけにはいかないでしょう。いやいやお金だけ置いて行かれても困ります。ここで治療するというなら、あなたがしっかり責任もってここにいてくださいよ」。そんな思いが湧いて出てきたのではないかと思います。けが人がいたとして、万が一のことを考えたら、簡単に引き受けることなんてできません。家族や保護者に連絡できなければ責任を持って引き受けることはできないという声が今ならば出ることでしょう。

でもこのサマリア人は旅立ってしまいました。宿屋の主人はどう思ったでしょうか。私はこの宿屋の主人はサマリア人がいなくなった後も彼のことを介抱し続けたのだと思うのです。それは何故か、それはそのサマリア人の思いに彼が心動かされることがあったからだと思います。もちろん、それは聖書には書かれていません。でも、相手に出会ってしまった以上関わらないではいられないというサマリア人の愛に彼は動かされたのではないかと思うのです。もちろんサマリア人の関わり方と宿屋の主人の関わり方は違います。サマリア人は自分の財布から相手のために費用を支払いました。これは無条件の愛です。でも主人はお金を受け取って世話しているので、言い換えればビジネスの中で、つまり自分に無理なく、できることの中で彼に関わっていったということです。もし仮に主人がサマリア人と同じように、道で半殺しになっていたその人を助けることができたかと問われるならば、決してそうではなかったと思います。でも世話することならできたのです。彼は宿屋としてその町に住まう者としてその人を助けるための色々なネットワークを持っていたでしょう。逆にサマリア人は旅人でしたから、そのような連帯は作れなかったはずです。ここには働きの違いというか、役割分担と言うか適材適所というか自分にできるタイミングで関わっていくということがあると思うのです。ですから私はこの連携というか、チームワーク、チームとしてできることをできる人がしていく、無理なくかかわっていく。これが一つの「善きサマリア人」の働きと言えるのではないかと思うのです。

私たちが「隣人になること」を躊躇するのは、サマリア人が一人ですべてを行ったと思うから、ハードルが高く、私にはできないとなってしまうのです。でも恐らくそうではないのです。大切なことは、一人の人に与えられた出会いを周りの人で繋いでいくことです。それこそ、イエスさまが「誰がその人の隣人になったと思うか」と問うた時に、律法学者が答えた「その人を助けた人です」の本当の意味、これは善きサマリア人の個人を指すのではなく、彼を助けるためにかかわったすべての人を意味しているのではないでしょうか。だからイエスさまもまた「サマリア人のようになりなさい」ではなく、「行って、あなたも同じようにしなさい」という結論に繋がっていったのだと思うのです。
この譬え話はやはりすごいと思います。それはやはり私たちにそれぞれのかたちで「隣人になっていくように」招いているからです。私たちは、関わることに憶病になります。誰か他の立派な人がやったほうが良いと思います。祭司やレビ人がやればよいと思います。しかもその人が何者かわからないならなおさらです。しかしイエスさまは私たちに相手がどんな人であっても構わない。神を信じる者じゃなくてもいい。他の神を信じる者でもいい。関わっていきなさい。そして私たちにいわば、チーム「善きサマリア人」になりなさいと招いておられるのです。私はそれがまさに教会の姿なのではないかと思うのです。

西南学院教会は、今年12月に100周年を迎えます。C.K.ドージャー先生から始まった私たちの教会の働きは、当初は牧師や名だたる執事たちによる特別なリーダーシップによって導かれてきました。教会での人との関わり、確かに窓口としては牧師や数名で関わることが多いです。しかし全てを牧師一人でやることはできません。その牧師を支える役員会がいて、またその役員会に協力するそれぞれ違う賜物を持つお一人お一人がいる。そしてその教会の支え合いの中で私たちはイエス・キリストの言葉に生かされ、再び立ち上がっていくことができるようになって行くというのが素敵だと思うのです。ですから、もっとも大切で残り続けるものは、信徒の交わりとしてのチーム「西南学院教会」であります。私たちは一人一人が神によって招かれ、この教会に連なる者となりました。それは私たちが互いに結ばれて関わって祈り合っていくためであるのです。

この善きサマリア人の譬えは、ある律法の専門家が「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか」と問いかけることから始まっています。そして「隣人愛」を実行することから始まっていくとイエスさまは答えます。それは相手に出会いまさに共に生きていくことを選ぶことから始まります。その交わりのただ中にイエス・キリストがおられます。そこに永遠の命が生まれることを共に受け止めて、歩んでまいりましょう。

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