〇創世記 12章1~4節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
〇説教「 神の言葉に従って旅立つ 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。本日の礼拝は、2025年最初の新年礼拝です。皆さまと改めて「明けましておめでとうございます」。とご挨拶させていただきます。今年もどうぞよろしくお願いします。皆さまの新年の歩みの上に、豊かな祝福と恵みと守りがありますようにお祈りしております。
西南学院バプテスト教会では、1/1の元日に元旦礼拝を守りました。そこでは、ヨハネ福音書1章から、「神の言葉と共に歩む」と題して説教をさせていただきました。聖書個所を読みます。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:1-5,9,14)。
何故、元旦礼拝にこの箇所を選び、改めて今、この新年礼拝で読んだかというと、神の言葉が私たちのただ中に来てくださったということに心を留めて一年を歩みだしていきたいと思うからです。イエス・キリストが人々に与えられたクリスマスの喜び、これは救われるに相応しい正しい歩みをしていた人々や輝かしい能力や功績を持っている人々にではなく、暗闇の中で不安に震えながら救いを求めつつも佇むより他ない人々に示されたものでした。つまり、神は私たちの基準においては、救われるに相応しくない人々を、あえて救い出すために神の子を送られたのです。これが神の無条件の愛なのです。そして、これが私たちがどういう存在かに関わらず先に恵みとして差し出されたからこそ、私たちはこの神の愛に救われるのです。
私たちが生きている社会は、先行き不透明な社会です。何が起きるかわかりません。うまく立ち向かえるかどうかもわかりません。しかし私たちは、この神が私たちにこの救い主を与えてくださったのだという事実、神我々と共におられるという希望に心を留めて歩むときに、これが私たちの揺るがない土台となるのです。神がおられる、だから大丈夫だ。たとえ何が起ころうとも、神の愛の内に歩むことができるようになるのです。おそらくは今年も思ってもみないような出来事が起きるでしょう。世界情勢でもそういうことが想定されますし、また自然災害についてもそうでしょう。また私たち一人一人個人的な出来事も起きると思います。今日の週報に書かせていただきましたが、実は昨年末、当教会の会員が二人、立て続けに主の元に召されました。12月20日にお亡くなりになられた方、12月29日にお亡くなりになられた方がおられます。ご家族にとっては、この年末年始、心が落ち着かない中でお過ごしの方もおられたと思います。主の平安と慰めをお祈りしたいと思います。また現在入院中の方、あるいはご家族が入院されている方、手術を控えている方もおられます。それぞれのご健康の守りと癒しと共に心の守りをお祈りしたいと思います。新たなスタート、新しいステージに向かわれる方がおられます。それぞれの新しい歩みの祝福と主の導きをお祈りしたいと思います。
私たちの教会も創立103年目の歩みを進めています。わたしたちも神さまの導きと守りを信じて、聖書から平和と希望と力をいただいて皆さまと共に歩み出していきたいと思います。そのために、今日はアブラハムが神さまの言葉によって旅立っていった箇所を共に読んでいきたいと思います。
アブラハムとは、今のイスラエル人、ユダヤ人の祖先と言われている人物です。より細かく言うと、アラブ人もそうです。聖書ではこのアブラハムから、それぞれの民族が誕生しているため、彼は「諸国民の父」とも呼ばれています。しかし、彼は神の言葉に従って旅立つ前は、諸国民の父であるどころか、一人の子どもさえいない状態でありました。実は、このアブラハムに語られた神の言葉に従って歩みだしていくことからすべてが始まっています。ですから私たちもこのアブラハムの個所から、神の平和と祝福を受け取っていきたいと思います。
まず、このアブラハムですが、何故神が彼に声をかけたのかということはよくわかっていません。神は唐突に彼に向って語り掛けるのです。聖書箇所をもう一度読みます。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
皆さんの中で、カンの良い方は、今日私が話そうとしていることにピンとくる方がおられると思います。なるほど、西脇牧師は75歳を過ぎた人にも神さまの言葉に従って歩んでいくことをお勧めしようとしているんだな、と思われるのではないかと思います。半分は、その通りです。クリスチャンに定年はありません。でも、それは私がお勧めすると言うより、むしろそれが私たち神を信じる者たちの歩みであると言うことなのです。そして、それが私たちの希望に繋がっていくのです。
実は、この箇所からわかるのは、神が語り掛けるのは唐突の出来事であるということです。何かの兆候があるとか、条件が満たされたときに神の言葉に出会えるわけではなく、神の言葉は突然語り掛けるのです。私たちが唐突にこの言葉を語り掛けたらどうでしょうか。おそらく戸惑いしかないのではないかと思います。「あなたは誰ですか。何言っているんですか。私の家はここにあって、私の家族はここにいるのに、出かけて行けっていうんですか。そもそもどこに行くのかもよくわかりません。お話になりません。私はそんな言葉にはついていきません」っていうのが、普通の反応だと思うのです。それか聞いたとしても耳に入れず聞き流してしまうこともあると思います。
しかしながらアブラハムは何故かこの言葉に従って出かけて行ったのです。どこに行くかもわからないのに。神さまの言葉に従っていったのです。ここでポイントなのは、彼は信じたとは書いていないということです。つまり疑いながらであった可能性もあります。信仰は問われていない。しかし大切なのはその言葉に従っていくことなのです。実に信じて従うことが大切なんではなく、従うことで信じるようになっていくものが、信仰生活というものなのです。
何故、彼は従っていくことができたのか。それはわかりません。もしかして彼は、ずっと神さまに従っていくことを祈り求めていたのかもしれません。あるいはずっと旅立ちたかったのに、踏ん切りがつかず、ようやくこの出来事があったから旅立つことができたのかもしれません。しかも、先ほども申し上げましたが、非常にすごいと思うのは、彼が旅立った時、彼は75歳であったと言うことです。皆さん、若い時ならいざ知らず、75歳になってから再スタートをしようと思われるでしょうか。もちろん75歳でも、皆さまのようにお元気でお過ごしの方もおられると思いますし、心機一転新しいことにチャレンジしていこうと思われる方だっておられると思います。とっても大切なことだと思います。
しかしながら、神さまに従って生きて行く。どこに行くかもわからない。それはつまり、彼が今まで作り上げてきた生活環境を捨て、蓄えてきた知恵があてにならないかもしれない世界にチャレンジしていくと言うことです。近いイメージでいえば、仕事を定年退職まで過ごし、リタイヤした後住み慣れた場所や親しい友人たちと別れ、言葉も通じない外国に行って一から始めていきなさいということに他なりません。よっしゃ、やってやろうと言う方はどれくらいおられるでしょうか。若い時ならいざ知らず、病気もあるし体力面で不安が残る。自信もない。それを考えると難しいと思っても仕方ないのではないかと思います。もちろん75歳とは書いてありますが、旧約聖書の最初の方は数字がバグっているというか、何百歳まで生きた人のことを記していますからもっと若い可能性もあります。しかしそれを置いても、新しいチャレンジをしていくことは、よほどの覚悟がないと難しいことだと思います。
でもやっぱり思うことは、神さまの招きというものは、本当に唐突であり、かつ私たちの心を動かすものであるということです。そしてその言葉に従っていったときに、私たちには驚くべき恵みというものが用意されているのです。要は、神の言葉との出会いをどのように受けとめるかということです。私たちは、ほぼほぼの確率で、神の言葉と出会っても、気づかないふりをしたり、無理ですと言って、逃がれる道を探そうとしたりするのです。それは今の安定した中にいることが居心地が良いからです。むやみな冒険なんてしたくないよ、新しいチャレンジなんて、有難迷惑。もっと自分とは関係ないところでやってくれ。私たちはそのように考えて、神の言葉を見ないようにしてしまうのです。
しかし、その言葉に従ったときに、私たちは新しい命を得るということを覚えたいのです。アブラハムが星の数ほどの子孫、海の砂ほどの子孫に恵まれていったように、私たちが到底思いもしないような結果が与えられるというのが、このアブラハム物語が伝えようとしていることです。これは決して子孫繁栄だけの物語ではありません。いのちの物語です。つまり神の言葉に従うときに出来事が起こり、新しい人々のとの出会いや、その中で生き生きと輝く命とは巡り合い、つながっていくということなのです。
イエス・キリストもまた言われます。「私に従ってきなさい」。私たちは、どちらかというと従っていくことはしんどいから、従うよりもその言葉を聞いて安心してほっとする、いわば従うことなしのライトな信仰生活を求めます。しかし、信仰生活の醍醐味は、やはり従うことで信じる者になっていくと言うことにあるのです。
イエスは言います。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」 (マタイ7:24-27) 。
イエスと言う土台の上に立つときに、私たちは嵐が押し寄せても大地が揺らぐことがあっても、希望を持って歩むことができるのです。言葉を聞いて終わるだけではいけません。信じて歩んでみることが大切なのです。ボンヘッファーもまた「従うことのない信仰は、安価な恵みであり、投げ捨てられている救いであると言います。むしろ、神を信じて従うことは高価な恵みであり、本当の恵みなのだ」と言い、信仰の本質の重要さを語るのです。
信仰の持つ強さというものを、私は最近、目の当たりにしました。12/29にお亡くなりになられた田中寛子さんのことです。田中さんは、今年8月からホスピス病棟に入っておられました。ホスピスとは、もう回復の見込みがなくなり、痛みからの緩和を目的とする病棟です。患者さんの中には、来たる自分の最期の時の恐怖におびえることなどもあります。死後の不安、残された家族への思いなど、様々な気持ちが出てくるものです。しかし田中さんは、すべてを受け入れた自然体で、取り乱すこともなく、いつものように病棟で過ごされ、いつお会いしに行っても穏やかに、応対しておられました。むしろ遠くまでお見舞いに来てくれたことへの感謝と申し訳なさみたいなものを口にしておられました。もし、自分の死後について神への確信がなければ、そうはならなかったのではないかと思います。むしろ、死を迎えても神が共におられる、神の国に招き入れられる。そこでお父さまやお母さま、お連れ合いに再会する希望をもって、その時を過ごされていたように思います。長い間生きてこられると、神への不満、信仰への躓きというものが起こることがあります。しかしそういうこともすべて超えたところで神に慰めと希望をいただくことができるということを、とても印象深く感じたのです。
神を信じること。すべてを信じることは難しいかもしれません。しかし神の言葉に従って歩んでみることから初めてみること。ここから私たちは、人生の土台、歩むべき道の守り、導きというものをいただくことができるということを感じました。
神は、そのような平和を私たちにお与えになるために、この世にイエス・キリストをお与えくださいました。「私は、道であり、真理であり、命である」と言われ、「わたしは、復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われた主を信頼し、新しい年に期待をもって歩んでまいりましょう。