10月24日のみことば

「何ごとかを目にしても、性急に争いの場に引き出そうとするな。そのため友人に嘲られることになったら/将来どうするつもりか。自分のことについて友人と言い争うのはよいが/他人の秘密を漏らしてはならない。それを聞いた人があなたを恥に落とし/あなたの悪評は去らないであろう。」(箴言25:7-10)

ある注解者はこの箇所に「あなたの話は本当か―親切か―必要か」という見出しをつけ、次のように説明します。あなたの話は本当か? 告発には十分な根拠がないと、恥をかいて帰ることになる。あなたは親切か? 私たちが誰かのことを話題にする場合、それは本当に相手に対する親切から出ているか、案外相手に対する嫉妬だったり憎しみだったり…。最後は、その告発は本当に必要か?案外必要もないのに口にしている場合が多いもの。知恵の教師の助言は現代こそ有効。

10月22日のみことば

「人がわたしにするように/わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは/あなたの言うべきことではない。」(箴言24:29)

人が私のことを悪く言うなら私も、彼が私に悪を行うなら私も彼に対して悪を、と言うなと知恵の教師は言います。なぜ?神が相手の悪意や悪行を知っておられ、その審きの時を計画しておられることを彼は信じているからです。パウロはローマ12:17で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と言い、Ⅰペトロ3:9には「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記されています。難しいことですが、聖書の言葉に従ってみましょう。

10月23日のみことば

「わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。しばらく眠り、しばらくまどろみ/手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を取る者のように襲う。」(箴言24:32-34)

石垣は崩壊し、畑は雑草だらけ、もちろん収穫物は何もない。その原因は繰り返される眠りとまどろみ、つまり怠惰。盗人は誰にも気づかれないように忍び込むが、盾を取る者は横一列に並び猫一匹通さない覚悟で迫って来ると注解者は言います。もしこのような状況を回避したいと思うなら、日々の勤勉以外にはありません。収穫の喜びは勤勉さからくるのです。今日も手に働きの道具を取りましょう、喜びと希望をもって。

10月21日のみことば

「罪ある者を正しいと宣言するなら/すべての民に呪われ、すべての国にののしられる」(箴言24:24)

裁判官には公正ということが求められています。もし不正を正義と宣言するなら、彼はすべての人から罵られるでしょう。反対に罪ある者に有罪を宣告するなら、彼ははすべての人から愛され、神から恵みと祝福を受けるでしょう。私たちの日常も同様でありたいと思います。親しい友だちが言うことには全部賛成、好きな人ではないから彼が言うことには全部反対。実に困った態度です。それが人間関係や社会をゆがんだものにします。

10月22日のみことば

「人がわたしにするように/わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは/あなたの言うべきことではない。」(箴言24:29)

人が私のことを悪く言うなら私も、彼が私に悪を行うなら私も彼に対して悪を、と言うなと知恵の教師は言います。なぜ?神が相手の悪意や悪行を知っておられ、その審きの時を計画しておられることを彼は信じているからです。パウロはローマ12:17で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」と言い、Ⅰペトロ3:9には「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記されています。難しいことですが、聖書の言葉に従ってみましょう。

10月20日のみことば

「わが子よ、主を…畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。突然、彼らの不幸は始まる。」(箴言24:21-22)

変化には有益なものと有害なものがあるのではないでしょうか。植物が成長すること、幼い子どもが成長することは喜ばしいことです。教会の働きが次第に充実すること、メンバーの数が増えて来ること、これも嬉しいことです。しかしある日突然教会がこれまで大切にしてきたものを台無しにするのは間違っています。「神よ、変えることのできないものを受け入れる潔よさ、変えることのできるのもを変える勇気、そして両者の違いを見分ける知恵を、私たちにお与えください」(ラインホルド・ニーバー)

10月21日のみことば

「罪ある者を正しいと宣言するなら/すべての民に呪われ、すべての国にののしられる」(箴言24:24)

裁判官には公正ということが求められています。もし不正を正義と宣言するなら、彼はすべての人から罵られるでしょう。反対に罪ある者に有罪を宣告するなら、彼ははすべての人から愛され、神から恵みと祝福を受けるでしょう。私たちの日常も同様でありたいと思います。親しい友だちが言うことには全部賛成、好きな人ではないから彼が言うことには全部反対。実に困った態度です。それが人間関係や社会をゆがんだものにします。

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