6月26日のみことば

「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」(箴言11:28)

聖書は富を否定していませんが、それのみに依存することの危険性を語っているのです。主イエスのなさった「愚かな金持ち」のたとえ話(ルカ12:13~21)。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われます。真の平安、確かさは神に信頼し従う人にあります。「神に従う木の人は木の葉のように茂る」と知恵の教師は教えます。

6月27日のみことば

「家に煩いをもたらす者は風を嗣業とする者」(箴言11:29)

「家に煩いをもたらす者」「家族を苦しめる者」とはどういう人でしょうか。ある注解者は物惜しみして家族の必要経費さえ出さないで苦しめることだと言います。こういう家で暮らすとなると、家族には何の喜びも楽しみもないことになるでしょう。物惜しみする人は「風を嗣業とする者」。「風」とはつかむことができないもの。物惜しみをしたにもかかわらず結局彼が手に入れるものは風のように空しいものになってしまうのです。

6月25日のみことば

「善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる」(箴言11:27)

「好意」とは神の好意、人々の好意の両方を含みます。それは私たちにとって望ましいものです。善を熱心に求める人、隣人の幸せを求める人の上には、気づかないうちに神と人の好意が訪れるのです。反対に隣人に対して悪を求める人、隣人が不幸になることを求める人には、願い求めた不幸の一切が隣人にではなく彼自身に刃向うように襲いかかるというのです。私たちはいつも変わらずに隣人の幸福を祈り求める者でありたいものです。

6月26日のみことば

「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」(箴言11:28)

聖書は富を否定していませんが、それのみに依存することの危険性を語っているのです。主イエスのなさった「愚かな金持ち」のたとえ話(ルカ12:13~21)。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われます。真の平安、確かさは神に信頼し従う人にあります。「神に従う木の人は木の葉のように茂る」と知恵の教師は教えます。

6月24日のみことば

「穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い/供する人の頭上には祝福が与えられる。」(箴言11:26)

飢饉の時など穀物をたくさん貯蔵している金持ちが売り惜しんで値を釣り上げるなら、民の怒りを買うことは必定です。彼の豊かさはこの時こそ用いられるべきです。私の心には神学者ロナルド・J.サイダーの言葉が警鐘のように響きます。「困窮している人を顧みないという罪は、貧しい者の神を激怒させる」(『飢えの時代と富むキリスト者』)。苦しむ人を守り配慮しようとする人の頭上には神の祝福が約束されています。

6月25日のみことば

「善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる」(箴言11:27)

「好意」とは神の好意、人々の好意の両方を含みます。それは私たちにとって望ましいものです。善を熱心に求める人、隣人の幸せを求める人の上には、気づかないうちに神と人の好意が訪れるのです。反対に隣人に対して悪を求める人、隣人が不幸になることを求める人には、願い求めた不幸の一切が隣人にではなく彼自身に刃向うように襲いかかるというのです。私たちはいつも変わらずに隣人の幸福を祈り求める者でありたいものです。

6月23日のみことば

「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。(箴言11:25)

食べ過ぎて太るのは困りますが、神の祝福によって「太る」つまり豊かにされることは素晴らしいこと、望ましいこと、感謝なことです。キリストは「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6:38/口語訳)と言われました。愛に富んだ人には隣人もそうしてくれるが、何よりも神がそうしてくださるのです。

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