答:それは、とうといことですが、たいへんなことです。そして知的にいくらわかったつもりでも、「聖書も神の力も知らない」人々がいます。他方今日まで、聖書一句によって、新しく生まれ変わった人々もたくさんいます。
18才の頃聖書の通読にチャレンジしました。通読がとても楽しくなって4回続けました。口語訳、文語訳、そして新改訳、そして再び口語訳。その時は心に響く箇所を求めて読みました。分からない箇所はいずれ理解できる時が来ることを期待しながら読みました。
関西学院大学神学部に学んでいる頃、松木治三郎先生の「聖書一句の人」という言葉にとても慰められ、励まされた思い出があります。聖書を広く浅くより、聖書一句を深く学ぶことの尊さを心に刻みました。もちろんその一句以外は学ばないということではありません。聖書一句が本当に分かった人は次の一句へと当然向かわされるのです。
岩波新書から大貫隆先生の『聖書の読み方』が出ていますが、そこに「聖書をどう読むか 私の提案」という章があります。とても有益ですので目次から抜粋しながらご紹介します。
提案1 キリスト教という名の電車。伝統的・規範的な読み方を相対化する。「不信心」「不信仰」のレッテルを畏れない。
提案2 目次を無視して、文書ごとによむ。文書ごとの個性の違いを尊重する。初めから調停的に読まない。
提案3 異質なものを尊重し、その「心」を読む。
提案4 当事者の労苦と経験に肉薄する。自分の生活だけでなく、書き手の生活の中でも読む。
提案5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる。