答:はい、そのことはやはり、キリスト教のはじめからきわめて大切なことでありました。そしてその後も福音書から常にイエスを描いてきました。ところが近代になって、福音書からそのイエスを描くことに満足できず、私たちの歴史の現実に生きていたイエスを史的に再建しようと試みました。事実福音書の中にはいわゆる史的イエスの真正な記憶による言葉や物語もあります。しかしどれを真正とするかは、もっとも高度な文献批判的研究によるよりほかはなく、しかもそれは容易に決定できないのです。だから実にさまざまなイエスが描かれてきたわけです。しかし史的イエスの追及は、あらゆる面から、ますます大切になってきました。そして私もイエスを自分の心に描いて、これをいつも大切にしています。
しかし、それは私にとって決して一つの固定した過去のイエスではなく、いつも私と共に、私の内に、生きていてたえず新しく描き直され、今日とさらに明日の私とこの世界を導くいのちの光と力となり、唯一の希望となっています。
史的イエスを知りたいという願いはきっとみんな持っているでしょう。しかしまるで昆虫採集のように小さな箱の中に虫ピンで固定されてしまったようなイエスを求めるなら、それはきっと間違いでしょう。イエスは今も生きて私たちに日々関わってくださるお方だからです。私たちはイエスとの出会い、交わりの中で変化させられていくのです。かつてギャロット宣教師が「分かっただけの自分を、分かっただけのキリストに捧げなさい」と言われました。私たちはイエスとの交わりの中で、イエスについての理解が深まり、同時に自分自身の理解も深まり、そして彼と私との人格的な関わりは一層深まっていくのでしょう。