〇マルコによる福音書 10章13~16節
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
〇説教「 子どもを愛するイエスさま 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。
今日は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステは、クリスマスとイースターに継ぐキリスト教会の三大記念日の一つです。しかしながら、主イエス・キリストの誕生の記念日であるクリスマス、イエス・キリストの復活の記念日であるイースターに比べると、やや影が薄い印象を持ちます。多分それはクリスマスとイースターはイエス・キリストの記念日であり、信仰の内容に深く関わる記念日なのに比べて、聖霊降臨の出来事というのは教会の出来事であり、やや不思議な話になっているからだと思います。しかしながら、信仰生活をしていく者にとっては、この日ペンテコステこそ重要です。それは聖霊という神が私たちに降り、内在される記念の出来事であるからです。
実はペンテコステという言葉自体には、宗教的な響きはありません。元々はギリシャ語で50を意味する言葉です。それでは何から50日目かというとイエス・キリストの復活の出来事から始まっています。イエス・キリストは、復活後約40日間、弟子たちと共に過ごされ、こう語られました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。(使徒1:4-5)そしてこうも言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。(使徒1:8)
その後、イエス・キリストは天に挙げられて行きました。弟子たちはエルサレムに留まり、祈りの時を持っていました。その日に与えられたのが、この聖霊です。聖霊とは何か、ということについては、ヨハネ福音書によると「真理の霊」であり「弁護者」である。使徒言行録によると「聖霊が降ると力を受ける」と書かれています。聖書の記録によると、この日聖霊を受けた弟子たちはまるで人が変わったかのように大胆に、かつ勇気をもって福音宣教を再開しています。そのため教会の誕生日と呼ばれます。が、私たち一人一人の出来事に置き換えて考えれば、まさに聖霊によって私たち自身が新しくされたことを思い起こす日であるのです。
正直に言えばペンテコステの出来事は実態として説明することはできません。しかし弟子たちの変貌ぶりを見るならば、聖霊を受けるとは、「内的なもの」であり、「動的なもの」であり、降ること自体よりも、弟子たちがまさに新しい命に生かされ、イエス・キリストの御心を行っていくために大切なことなのです。
そしてその出来事は恐らく、その日に突如として起きたものではなく、その前段階、つまり復活されたイエス・キリストが共にいて、弟子たちの心が励まされ、また約束の言葉を40日も受け取り続け、その言葉によって生かされていくことから始まっていたのではないかと思います。今日、私たちはマルコ10章13~16節の御言葉からイエス・キリストの福音と聖霊の導きを頂いて参りましょう。
今日の聖書個所については、先ほど子どもメッセージでもお話しいただきましたし、先週の礼拝で「幼児祝福式」を行った時に、式文の中でご説明差し上げました。なので、この箇所についての公開はもう必要ないと思いますので端的に言います。今日の個所でイエス・キリストが言おうとしていることは、イエスさまが子どもを愛していることです。しかしより厳密に言うならば、恐らく子どもだけではなく、小さな者たち、つまり様々な状況の中で弱い立場の者たちを愛していると言うことなのです。
今日の箇所だけを見るならば、イエス・キリストは、子どもたちを連れてきた人々を叱った弟子たちを見て憤っています。憤るという言葉は、単純に怒るというよりもより感情的な悲しみや、うめきに満ちた言葉だと思います。他の言葉では憤慨するとか猛烈に腹を立てるとかそういう風にも言い換えられるでしょう。その背景には、弟子たちが子どもたちを軽んじただけではなく、子どもも子どもたちを連れてきた大人たちの心をも全く意に介そうともしない、配慮をしようともしない弟子たちの対応に怒りをあらわにしたと言うことです。もちろん弟子たちにも言い分があったと思います。イエスさまが疲れないようにとか、諸々の理由はあったでしょう。それは差別と言うより区別だったのかもしれません。しかし、そこに小さい人々への配慮があったのかどうかということがこの箇所のポイントです。
それが実はイエスがこれまでも繰り返し語ってきたことなのではないかと思うのです。例えば、最近共に読んできた聖書個所を振り返ってみるならば、イエスの弟子たちは、旅路から帰ってくる間、「誰が一番偉いか」ということを議論していたことがありました。つまり弟子たちには「偉い人と偉くない人を区別する傾向」があったのです。誰が一番偉いか。と問われるならば、最も良いことをした人とか、もっとも正しいことをした人、業績を上げた人、他の人にはできないようなことをした人など、色々なことが考えられるでしょう。それは特別なことをするから、もっと偉いと思う思考回路があるからです。そして、偉くない人というのは、逆に言えばそういうことをしない人と言うことになります。そういう思考回路で言うと、子どもたちは最も偉くないというか、後回しにされる存在であったわけです。
しかし、イエスは「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語っています。これは例えば王さまが家臣たちに仕えられているように、一番偉い人が周りの人から仕えられるべきだという、わたしたちの頭の中にある常識を打ち壊す言葉です。イエスは、そう言って子どもたちを人々の真ん中に立たせています。子どもと言う存在は、最も後回しにされやすい存在です。しかし、そういう子どもたちに仕える者こそイエスは先になる人だ、と言うのです。
その後イエスは、地獄のイメージを持ち出して自分を信じる小さな者が躓かせられることを好まないという話をします。小さな者たちというのは、簡単に言えば世の中で理解されにくい存在です。例えば私たちにも経験があるかもしれません。神を信じると言うことについて、恐らく世間は言うでしょう。「神なんていないよ。神を信じるなんて馬鹿じゃないの。神を信じるなんて弱い人のすることだ」。そういう意味でわたしたちは小さな者たちです。それはイエスを純粋に、無垢に信じているということもあるかもしれませんが、より率直に言うとむしろイエスの言葉に寄りすがりたいと言う思いや、それにすがらないではやっていけないという状態もあるからです。だからこそイエスはそんな私たちに私のところにきなさいと教えられ、そういう人々を妨げてはならないと言うのでしょう。
その後に、先週の聖書箇所になりますが、離縁について教えています。離縁の問題では、「一方的に強い立場の者が弱い立場のものに離縁状を書いて出すということ」への批判をイエスは語っているのではないかとお伝えしました。
そういう意味では、これらの聖書個所は、イエスは小さくされた者たちを愛しておられますし、逆に言えば、私たちの価値観の中で、最も小さい者、子どもだけではなく、自分を信じたいと思っている者、イエス以外の誰からも助けを得ることができない者、色々な関係性の中で立場の弱い者が、イエスのところに来ることを妨げようとすることに、イエスは憤っておられると言うことができるのです。
私たちはそういう意味で、社会から理解されにくい立場にいます。しかし、イエスはそういう私たちを理解し、共感し、受容しておられます。私たちはそれぞれ違う生きづらさを持っていると思いますが、しかしながら、イエスがこういうお方だからこそ、わたしたちはそれぞれに主に希望を持ち、信頼し、今を生きているのではないでしょうか。だからこそ、私たちはイエス・キリストが語る神の国というものも信じることができるようになるのではないかと思うのです。
ちなみに、この神の国というのは、天の国という風に言うこともできます。神の国と言うとある特定の形を持った国という印象になりますが、天の国というのは、天が複数形ですから、多分私たちが思い描く国、つまり「選ばれた人、偉い人しか入れないところ」よりもさらに広がりを持った概念であり、まさに私たちも含め、すべての人が入れるほどの容量、器の多い神の国と言えるでしょう。
それでは子どものように神の国を受け入れる者というのはどういうことでしょうか。これは、純粋に無垢に信じるということだけではなく、恐らくその希望を持たなければやっていけないような人、その希望に寄りすがって生かされている者たちもまた含まれていると思います。そもそもイエス・キリストは私たちを招くために来てくださったのです。そう信じ、そういう希望を持って歩むときに、私たちはまさにイエス・キリストの伴いの中を歩むことができるのです。イエスに救われたという思いがなければそれを実感することは出来ません。わたしたちは自分の力で神の国に入ることは出来ないのです。しかし神がいるからこそ、イエス・キリストがおられるからこそ、私たちは救われ、希望をいただき、神の国を信じて生きて行くことができるのです。
聖霊は、そういう希望を私たちの心の中に与え、再び立ち上がっていく力を与え、喜びを与え、感謝の心を与えて私たちを生かすのです。ですから、聖霊とは、私たちの力であり、真理であり、弁護者という出来事になって来るものであるのです。
聖霊は、また私たちを新しい歩みへと導くものでもあります。弟子たちが留まっていたエルサレムから福音宣教を開始していったように、私たちも与えられている思いに生かされていくものが聖霊であるからです。というよりは私たちのあるがままの心に寄り添い、心の方向を変え、新しい歩みに導く存在であるともいえるかもしれません。
実は、今日の礼拝は一つ面白い趣向を凝らしています。実は最初に賛美した346「来たれ聖霊よ」と564番「イェスは委ねられる」は、同じメロディーの讃美歌で、歌詞だけが違います。346番は聖霊が私たちに働くことを祈り求め感謝する賛美ですが、564番はイエス・キリストが聖霊の力を持って弟子たちを派遣する賛美になっています。実は礼拝というものは、同じ構造を持っており、神のみ招きによって集められた私たちが御言葉によって新しく変えられ、聖霊の導きによって祝福を持って派遣されていくというものです。聖霊は、神の言葉を通し、今も常に私たちと共におられ、神の御心を為すために私たちを導いていかれます。是非共にこの聖霊の導きに委ね、力をいただき、共に歩み出して参りましょう。
皆さまもご存知のように、本日礼拝後、2024年度定期総会が開催されます。役員や委員、各会の働きを分かち合い、共に確認し、主の御心を祈り求め歩んでいくために大切な時です。私たちはこの総会の議事運営と今後の教会の歩みの上に主の導きを祈り求めて参りましょう。共に祈りましょう。