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2024年9月8日説教全文「メシアはダビデの子か、ダビデの主か」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 12章35~340節

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と』。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。

〇説教「 メシアはダビデの子か、ダビデの主か 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。台風が過ぎ去った後、若干秋風が香る日もありましたが、依然として例年より暑い日が続いています。皆さんの心と体のご健康が守られ、日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

今日は早速、聖書個所に入っていきたいと思います。内容については、先ほど子どもメッセージでお話をしましたが、今からは、より文脈を読み込んだうえでもう一度お話ししたいと思います。

過越祭でエルサレムに入城したイエス・キリストの一行は、神殿で様々な人々から問答を受けられました。祭司、律法学者、長老からは「権威について」、ファリサイ派やヘロデ派からは「皇帝への献金について」、サドカイ派からは「復活について」の問答を受けています。「問答」というのは、質問と返答ですので、これは一見普通のことのように思われます。しかしこれらの普通ではない部分、隠された問題点は、実はこれらは、彼らがイエスを陥れようとして考え出した悪意に満ちた質問であったということです。ところがイエスはそれぞれの質問をうまく切り返し、その思惑から逃れています。

先週の聖書箇所では、そのイエスの受け答えを見て適切で立派だと思った律法学者が「あらゆる掟の中でどれが第一か」ということを質問しています。イエス・キリストはこの質問に対してはまるで向かい合うかのように「神を愛することと隣人を自分のように愛すること」を教えられました。質問した律法学者はその答えに同意してイエスを評価しています。それを受けてイエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。
神の国から遠くないとはどういうことでしょうか。私たちは今日、この言葉から聖書個所を考えていきたいと思います。神の国とは、神が唯一の支配者として治められる国です。そしてそこには神の愛がもっとも満ち溢れるところであり、他の価値判断は入らないところです。むしろ神の愛に触れることによって、わたしたちにはそれ以外の教え、慣習、常識という大切にしてきたことから解放されるということです。
その意味についてですが、この律法学者も元々は悪意を持っているグループの中に属していましたが、イエスとの出会いによって変えられ、誠実にこの問いかけを行ったことが考えられます。
つまりそれは、仲間たちの空気というか陰謀論というか同調圧力と呼ばれる力からも自由になった証拠である。そして彼はイエスの返答を聞き、確かにその通りだ。自分がうすうす考えてきたこと。しかしそれをあまり公には言えなかったことを公に言い表せるようになったことが、彼が神の国に近くなったと言えたきっかけになったのではないかと思います。

今日の場面はその後の出来事です。その後、イエスにあえて質問する者はいなくなったため、今度はイエスが神殿の境内で教え始めるという場面に入っています。イエスはこう言います。

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と』。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。

イエスのこの言葉は、なかば唐突に聞こえます。しかしこれは、これまで質問してきた律法学者たちへのまぎれもない批判です。恐らくは、その最後の質問をした人がイエスとの出会いによって素直に変えられたのに比べて、変わろうとしない多くの律法学者への批判だったのだろうと思います。
「批判」という言葉は、「非難」とは違い、攻撃とかやっつけてやろうとかそういう思いのものではありません。むしろ物事を判断するために建設的な議論を行い、質問を行うことで、物事を正していくこと。律法学者たちはそれまで無茶な議論を行い、イエスを非難していましたが、イエスは彼らを同じ土台で非難するのではなく、彼らの考えていることを、聖書の言葉を用いて、果たしてそれは本当に正しいのかという質問をしているのです。本来はその批判を受けて、自分自身で問いに向かい合っていくことで立て上げられて行くのですが、それが受け止めきれない場合、違う形、悪意や妬み、時に暴力ということで相手に思いをぶつけることになります。

今回のテーマは、「メシア」によるものでした。メシアとは、日本語では「救世主」、「救い主」と呼ばれます。英語では「クライスト」、ギリシャ語で「キリスト」です。ユダヤには、今もなお「メシア(救世主)待望思想」があります。ユダヤがバビロンによって滅亡した後、捕囚された人々は神に対する諸々の罪を悔い改めると共に、再び必ず神が救い主を送り、助けてくれることを信じました。そのことを約束したのが、いわゆる預言者の言葉でした。

しかし、待てどくらせど、メシアは現れない。偽メシア、自称メシアはけっこう頻繁に表れたそうですが、彼らはもちろん、そういう人物をメシアとは認めませんでした。しかし神は必ずメシアを送って下さり、イスラエルを回復させ、救いに導いてくれることを信じていたのです。律法学者は、そういう意味で聖書を研究することを通して、神が約束されているメシアが来られることを大切に待っていたのだと思います。
恐らく彼らは口々に噂していたのではないでしょうか。「メシアとはどんな人なんだろう」。そういう時に決まって引き合いに出されるのがダビデ王です。ダビデについては旧約聖書サムエル記に書かれていますが、彼はイスラエル王国の理想的な英雄として、まさにメシアのモデルとされていました。それは彼が軍事的に極めて優れたリーダーシップを持っていたからであり、かつ宗教的にも敬虔な信仰を持っていたと言われるからです。神が与えるメシアというくらいなんだから、政治も信仰も合わせてモデルとなる人物だろう。そして、そのようなリーダーシップで人々を導いてくれる人がメシアに違いない。そのようなことを彼らは期待していたのです。そのため、メシアは「ダビデの子(子孫)」だと思われていました。また預言者もそのように語ります。ミカ書5:1「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」。

そして聖書はこのメシアがイエスであることを語ります。エルサレムに入城する時「ダビデの子にホサナ」と呼ばれましたし、その直前に出会われた盲人バルティマイは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言っていますので、イエスがダビデの子であり、救い主と考える人もいたのだと思います。
しかし当のイエスは、メシアはダビデの子ではなく、「ダビデの主」だと言います。メシアは「ダビデの子」か「ダビデの主」か。一言の違いですが、ここには極めて大きな違いがあります。

「ダビデの子」という言葉には、イスラエルの王ダビデの子孫、つまり「私たちユダヤ人の救い主」という意味が込められています。ダビデの子がメシアとしてやってくる。そしてそれは律法学者たちからすれば、自分たちが教えてきた律法の通りだ。だから自分たちが思い描く、理想的なメシアなのだという風に受け取れるでしょう。ダビデのような、しかしダビデを超えない、ダビデをモデルとしたメシアです。言い換えれば民族主義的な願望ともいえます。

しかし「ダビデの主」という言葉には、そもそもメシアはダビデを超えている存在であるという前提があります。「ダビデの主」には、ダビデを助け、かつ導いた主がおられるということを意味しているからです。そしてこの言葉には、律法学者が描いていたような「ユダヤ人の王」という民族的な狭量さを超えていることが分かります。イエスはこの根拠として詩編110編を引用しています。イエスの引用では「主は、私の主にお告げになった」。と書かれており、「主とわたしの主は違うのか」と思ってしまいますが、詩編では「わが主に賜った主の御言葉」となっています。つまりわが主、メシアからもらった言葉だと言うのです。それが「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」とあるのです。

イエスがここで言おうとしているのは、「神」を自分たちの神と考えるか、それとも自分たちを超えるすべての者の神と考えるかという違いに他なりません。そして律法学者はそのメシアは自分たちの神であり、自分たちだけを救ってくれる存在だと考えていたのでしょう。しかし、イエスが言おうとしているのはそういうことではないのです。

38節以降を読んでみると、イエスの律法学者たちへの批判がさらに続いています。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
どうしたら、律法学者たちはそのような偉そうな立場になれるのでしょうか。それは、自分たちこそが正しい、自分こそが偉いのだという自尊感情が心にあったからだと言えるでしょう。その傲慢さがどこから来ているのかと言うことについては、まさに「神」が「自分たちの神」であるということです。
メシアは聖書に書いてある通りに、来る。そして私たちはそのメシアのことを一番知っている聖書学者だ。だから、偉いのだという論理でしょうか。

しかしこのように考える彼らの神は、自分たちの考えた「偶像」に他なりません。「神」という存在はそもそも私たちの頭をはるかに超えている超越的な存在です。私たちにはその全容を捕らえることは出来ません。しかしながら、私たちは時に自分が神の御心をすべて知っているかのように、神を語ることがあります。
「神さまは、わたしにこうしてくださった」。「神さまが全てを導いてくださった」「神さまを信じれば、すべてがうまくいく」。このように私たちも考えることがあるでしょう。それは事実として自分にはそのように受け止められる事柄です。しかしながら、だから「神さまは、こうしたらこうしてくださる」。と決めつけるのは早合点です。

モーセが神から与えられた律法の「十戒」に、「神の名をみだりに唱えてはならない」という教えがあります。古代ユダヤ人たちは、まさにこの「神の名」を呼んではならないという風に受け止めて、神の名、かつてはエホバ今はヤハウェと言われる言葉を「わが主、アドナイ」という形に読み替えました。これは一つ敬虔さの表れであると言えると思いますが、私たちは違う意味で捕らえたいと思うのです。
それは私たちが「神」を「自分の信じる神」の姿に作り変え、神の名を軽々しく使い自分の思いを伝えていることはないでしょうか。神の御心というものを、安易に自分の思いに変えて、伝えてしまっていることはないでしょうか。

「神の名をみだりに唱えてはならない」。この言葉は、神の名を簡単に使ってはいけないという非常にシンプルなことです。つまり神と言う存在は、わたしたちには捉えきれる存在ではないという前提があります。私たちは神を語りえない存在なのです。私たちは神のなさることを、それが私たちにとって良きことも悪いことも、「然り、然り」と受け止めていくことしかできないのです。この世の中で起きることは全て、信仰者であろうとも信仰が無くても起きることであるからです。しかしそのような中で、私たちはその神の存在に希望を持ち、慰めと励ましを受けてやっていくということが信じるときに与えられる力になるのです。

律法学者は長い衣を着ていたとあります。それは長い衣というもので自分たちを覆い隠すものです。つまり、律法と言う教えで自分たちを守るものであり、自分たちの心の内を隠すものであります。しかし、大切なのは、そういう固定化された価値観、考え方からイエスとの出会いによって解放されること。そして本当の神が今、わたしに語り掛けることに心を向けていくことが大切なのです。それが神が私たちに与えてくださる救いであり、解放という出来事なのです。

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