11月18日のみことば

「自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ」(箴言27:2)

聖書注解者は、「賞賛の言葉が見知らぬ他人から出る時、重みをもっている。…場合にはよっては敵対関係にあるような人、そのような人の口から出てくる褒め言葉は価値あるもの」と説明しています。Ⅰペトロ2:12には「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」ともあります。立派な行いや生活は難しいかもしれませんが、今日一日を感謝し喜んで働きたいと思います。

11月19日のみことば

「石は重く、砂も目方がかかる。無知な者が不機嫌なのはどちらよりも重い」(箴言27:3)

石は重いです。砂は小さいけれど、それも集まれば重くなります。不機嫌さは大小問わず周囲にいる人の心に重く暗くします。自分が不機嫌だからといって隣人を不愉快にする権利は誰にもありません。「不機嫌な馬には、別の馬小屋が必要だ」といった人がいるが、確かにそのとおりです。ところで主イエスの周囲にはいつも明るいユーモアが溢れていたに違いないと私は確信しています。ひげ面の弟子たちがしばしば破顔一笑した姿を想像すると楽しくなります。

11月17日のみことば

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(箴言27:1)

ヤコブの手紙4:13~15には、「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。…あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです」と記されています。私たちは過去の後悔に、あるいは将来の心配や夢としか言えない計画に多すぎる時間を費やすべきではなく、恵みとして与えられている今日に自分の知恵と力を注ぐべきなのです。エフェソ5:16には「時をよく用いなさい」と記されています。

11月18日のみことば

「自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ」(箴言27:2)

聖書注解者は、「賞賛の言葉が見知らぬ他人から出る時、重みをもっている。…場合にはよっては敵対関係にあるような人、そのような人の口から出てくる褒め言葉は価値あるもの」と説明しています。Ⅰペトロ2:12には「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」ともあります。立派な行いや生活は難しいかもしれませんが、今日一日を感謝し喜んで働きたいと思います。

11月16日のみことば

「穴を掘る者は自分がそこに落ち/石を転がせばその石は自分に返ってくる」(箴言26:27)

誰かを躓かせようとして穴を掘った人自身がそこに落ち込むことになるし、誰かの上に大きな石を落とそうとして転ばそうとするとその人自身の上にゴロゴロと転んでくると知恵の教師は言います。この考えの背景には、神がおられ、聞いておられ、見ておられるという確信があります。渡辺和子先生の著書の中に、「日本人は〈人前〉を気にし、〈人聞き〉の悪いことは言わないという。しかし私たちは〈神前〉を気にし、〈神聞き〉の悪いことは言わない」とありました。

11月17日のみことば

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(箴言27:1)

ヤコブの手紙4:13~15には、「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。…あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです」と記されています。私たちは過去の後悔に、あるいは将来の心配や夢としか言えない計画に多すぎる時間を費やすべきではなく、恵みとして与えられている今日に自分の知恵と力を注ぐべきなのです。エフェソ5:16には「時をよく用いなさい」と記されています。

11月15日のみことば

「憎しみはごまかし隠しても/その悪は会衆の中で露見する」(箴言26:26)

悪しき者はしばしば声を和らげ、親しみを込めて語り振る舞います。しかし彼の偽り、欺き、悪意は会衆の前で露見することになります。主イエスの時代の大祭司たちの言葉がまさにそれでした。反対に、主イエスの愛が真実であることは、十字架の苦しみの中で明らかになりました。「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)。これこそ信頼するに足る大いなる愛です。

TOP