11月9日のみことば

「通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ」(箴言26:17)

通りすがりの野犬の頭をそっと撫でると、犬はあるいはしっぽを振るかもしれません。しかし「耳」を力いっぱい掴むなら、どんな気立ての良い犬でも怒りを表し噛むかもしれません。「窮鼠猫を噛む」とも言います。同様に自分と何の関係のない問題に首を突っ込み、興奮してあれこれ文句を言うなら、きっと当事者から「いい加減にしなさい!」と抗議され、場合によっては危害を加えられるかもしれません。「君子危うきに近寄らず」です。近寄らねばならない課題とそうではない課題を見分けることこそ知恵!

11月10日のみことば

「木がなければ火は消える。陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる」(箴言26:20)

「陰口を言う者」が噂の炎を一層燃え上がらせる薪の役目をするのです。生活に静けさ、穏やかさ、平穏を取り戻したいなら、「人のよしあしを言う者」「つげ口する者」「ささやく者」を自分の周囲から遠ざけることです。そういえば葉祥明氏の『三行の知恵 心の平和のために』にこんな言葉がありました。「嘘はつかない。正直に生きる。安らかでいたいから。人を陥れれば、思わぬときに、自分もこける」。

11月8日のみことば

「怠け者は言う/「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。扉はちょうつがいに乗って回転する。怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことをおっくうがる」(箴言26:13~15)

ある学者はこの部分に「怠け者の鏡」という見出しをつけています。怠け者はあれこれの理由をつけて行動の一歩を踏み出しません。「外に獅子がいる」と馬鹿げた言い訳をし、快い眠気を求めます。怠け者の獲物は腐り、食事は冷めてしまいます。私たちに必要なのは怠惰を退ける心であり、目標に向かって一歩を踏み出す足であり、難儀な仕事にも取り組む手です。主はそのような人を祝福されるのです。

11月9日のみことば

「通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ」(箴言26:17)

通りすがりの野犬の頭をそっと撫でると、犬はあるいはしっぽを振るかもしれません。しかし「耳」を力いっぱい掴むなら、どんな気立ての良い犬でも怒りを表し噛むかもしれません。「窮鼠猫を噛む」とも言います。同様に自分と何の関係のない問題に首を突っ込み、興奮してあれこれ文句を言うなら、きっと当事者から「いい加減にしなさい!」と抗議され、場合によっては危害を加えられるかもしれません。「君子危うきに近寄らず」です。近寄らねばならない課題とそうではない課題を見分けることこそ知恵!

11月7日のみことば

「愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは、射手が何でもかまわず射抜くようなものだ」(箴言26:19)

会社が人を雇用する場合、目標達成にふさわしい能力を持っているかどうかを吟味するに違いありません。手あたり次第に雇用するのは危険です。まるで弓の射手が敵味方構わず矢を放ち仲間に痛手を負わすように、大切な顧客を失い会社に大きな損害をかけることでしょう。主イエスが弟子たちを集められる時も、彼らの働きぶりを見、彼らと言葉を交わし、吟味して選ばれました。教会の働き人についても同様のことが言えるでしょうね。

11月8日のみことば

「怠け者は言う/「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。扉はちょうつがいに乗って回転する。怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことをおっくうがる」(箴言26:13~15)

ある学者はこの部分に「怠け者の鏡」という見出しをつけています。怠け者はあれこれの理由をつけて行動の一歩を踏み出しません。「外に獅子がいる」と馬鹿げた言い訳をし、快い眠気を求めます。怠け者の獲物は腐り、食事は冷めてしまいます。私たちに必要なのは怠惰を退ける心であり、目標に向かって一歩を踏み出す足であり、難儀な仕事にも取り組む手です。主はそのような人を祝福されるのです。

11月6日のみことば

「愚か者の口にすることわざは/酔っぱらいの手に刺さるとげ」(箴言26:9)

これはどういう意味でしょう?釘は木を必要な場所にしっかりと固定します。同様に知恵ある人の言葉は必要な場所で有益な役目を果たします。しかし愚かな人が語ることわざは、有益な働きはせず、反対に「手に刺さるとげ」のように彼自身と周囲にいる人を傷つけることさえすると言うのです。私たちが今日語る言葉が誰かの心を慰め、励まし、希望と勇気を与え、愛と信仰を増し加えるものでありますように。

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