11月28日のみことば

「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(マタイ1:17)

ダビデはイスラエル第二代の王(前1000~961年在位)、深い宗教的素質と優れた政治的才能に恵まれ、国は堅固になりました(サムエル記下5:4~5)。彼は祈ります。「主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。…あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます」(サムエル記下7:28~29)。主よ、今日私たちにも祝福の言葉をお与えください。

11月27日のみことば

「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(マタイ1:17)

神はアブラハムと妻サラに約束をお与えになりました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記1:1~2)。聖書は「アブラムは主の言葉に従って旅立った」と記しています。時にアブラム75才、決して若くはない彼に、新たな一歩を踏み出させたものは神の約束の確かさだったのです。

11月26日のみことば

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。…こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(マタイ1:1、17)

マタイ福音書の冒頭はイエス・キリストの系図です。アブラハム、イサク、ヤコブ、ルツ、ダビデなどを除くと私たちにはなじみのない名前ばかりが出てきますが、神は一人ひとりをよくご存知です。神は彼らを愛し、救いの約束を与え、お導きになったのです。神は私たちのこともよくご存知で、日々の歩みを導き祝福しようとしておられます。

11月25日のみことば

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように」(民数記6:24-26)

これは「アロンの祝福」と言われるもので、教会の礼拝でもしばしば用いられます。私は「主が御顔を向けてあなたを照らし」という言葉に惹かれます。主の御顔には怒りや憤りではなく、幼子が母親の顔を見て安心するような愛と慈しみが満ちています。

11月24日のみことば

「イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた」(ヨハネ1:39)

バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレと彼の友人、彼らは主イエスに関心を抱き、「どこにお泊りですか」と尋ねました。それに対する答えが今日のみ言葉です、けれどもアンデレたちの本当の関心は〈宿泊場所〉ではなく〈主イエスその方〉でした。主イエスの返答も同様で、ついて行くことを通して主イエスの〈教えと救い〉が分かると言われました。主イエスはナタナエルに対しても「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(ヨハネ1:50)と言われました。私たちも主イエスについて行きましょう。

11月23日のみことば

「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』」(サムエル記上3:10)

「どうぞ、お話しください。僕は聞いております」という言葉に心を捉えられます。自分が話すのではなく主の声を聞くこと、それが祈りの本質なのです。哲学者ゼーレン・キルケゴールはこう言っています。「私ははじめ、祈りとは語ることだと思っていた。しかし私は祈りとは聴くことなのだと学んだ」。私たちもこのことを学びたいのです。心の深みに聴く神の言葉によって癒され、立ち上がりたいと思います。

11月22日のみことば

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)

私たちは主イエスのこの御言葉をよく知っています。でも果たして御言葉に従って主イエスの愛のうちにとどまることができているでしょうか。一時はとどまっても、すぐに周囲のあれこれが気になって、外に向かって動き出そうとしてはいないでしょうか。「あなたのうちに在ること、それがすべてです。全体であり、完全なことであり、救いです。あなたの中に身を沈めることこそが」(イェルク・ツィンク)。

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