10月2日のみことば

「清い心を愛する人は唇に品位があり/王がその友となる」(箴言22:11)

「清い心」とは考えること、計画すること、その動機の全てが純粋であることです。「唇に品位があり」とは、愛のある言葉、親しみをこめた言葉、品位ある優美な言葉、皮肉とは対照的な言葉です。ドイツの諺に「悪口を言う奴は舌に、聞く者は耳に、悪魔が宿っている」とあり、パンセは「互いにけなし合っていることを皆が知ったら、この世に四人と友人はできまい」と言っています。心と心をつなぎ合わす言葉を今日も私たちの唇に!

9月30日のみことば

「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから」(箴言22:9)

岩波訳聖書はこの箇所を「善意あるまなざしを送る者は祝福される」と訳しています。「善意あるまなざし」の直訳は「目の親切」。仏教の「雑宝蔵経」に記されている「無財の七施」の第一は「眼施」、それは優しい眼差しで人に接することです。優しい眼差しには人の心を元気にする力が宿っています。神はそんな人に祝福をお与えになります。

10月1日のみことば

「不遜な者を追い出せば、いさかいも去る。争いも嘲笑もやむ」(箴言22:10)

ある神学者の注釈「共同体の中から傲慢や大言壮語が消える時、多くの人は安堵する。罵倒やいやみ、いがみ合いが終わる時、人は再び価値ある仕事を始めるようになる。不一致と不和は…間違った態度、害をもたらす〈人〉から起こる。」使徒パウロはしばしば「主において同じ思いを抱きなさい」(フィリピ4:2、1:27、2:2)と訴えています。それこそ主イエス・キリストに結ばれ、その愛に生きている私たちのあるべき姿です。

9月29日のみことば

「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう」(箴言22:6)

スイスの精神科医・ポール・トゥルニエは著書『人生の四季』(1967年出版)の中で、人生を四季に例え、各季節には取り組むべき課題があると言います。人生の秋である老年期には、大抵の老人の性格は若い頃に示していた傾向が特に顕著になる、自己中心的だった人はさらに自己中心的になり、高潔な性格の人はさらに気立ての良い親切な人になる。「老年期は人生の途上ですでに醸成されており、将来現れ出てくる姿がすでに刻印されている」と言っています。だからこそ若い頃からの生き方が問われるのです。

9月30日のみことば

「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから」(箴言22:9)

岩波訳聖書はこの箇所を「善意あるまなざしを送る者は祝福される」と訳しています。「善意あるまなざし」の直訳は「目の親切」。仏教の「雑宝蔵経」に記されている「無財の七施」の第一は「眼施」、それは優しい眼差しで人に接することです。優しい眼差しには人の心を元気にする力が宿っています。神はそんな人に祝福をお与えになります。

9月28日のみことば

「曲がった道には茨と罠。そこから遠ざかる人は自分の魂を守る」(箴言22:5)
曲がった道とは正しくない道、しかし私たちにはそれがまっすぐで正しい道に見えるから困るのです。時々自分の歩いている人生の道をチェックしてみましょう。古代ケルトの祝福の祈りです。「きみの行く手に、道が立ちあがりますように。きみの背後から、いつも追い風が吹きますように。きみの顔に、暖かい日差しが注ぎますように。きみの田野に、雨が優しく降りますように。ふたたび相見る日まで、神がその御手のうちにきみを支え保ってくださいますように」。

9月28日のみことば

「曲がった道には茨と罠。そこから遠ざかる人は自分の魂を守る」(箴言22:5)
曲がった道とは正しくない道、しかし私たちにはそれがまっすぐで正しい道に見えるから困るのです。時々自分の歩いている人生の道をチェックしてみましょう。古代ケルトの祝福の祈りです。「きみの行く手に、道が立ちあがりますように。きみの背後から、いつも追い風が吹きますように。きみの顔に、暖かい日差しが注ぎますように。きみの田野に、雨が優しく降りますように。ふたたび相見る日まで、神がその御手のうちにきみを支え保ってくださいますように」。

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