5月16日のみことば

「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」(箴言9:1~6)

知恵の学校、それは美しく彫刻された七本の柱による内廊がある立派な建物であり、テーブルの上にはさまざまな食事と多くのぶどう酒が用意されています。それは知恵の学校の素晴らしさと教えられる知恵の豊かさを象徴しています。そしてこう呼びかけるのです。「誰でも立ち寄るがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」。現代における知恵の学校、それは教会ではないでしょうか。軽率な思いを捨て、神と人について熟慮し、確実に命への道を選び取り、示された祝福への道を力強く歩むことを教える場です。

5月14日のみことば

「わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる」(箴言8:35)

「わたし」とは神からの知恵です。私たちが尋ね求めるべきはそれです。それを見いだし、それに従って歩む人は、喜びと力に満ちた人生を力強く歩むことができます。神はそのような人を大いなる祝福で満たすために「喜び迎えて」くださいます。私たちは知っておくべきです、神に喜び迎えて頂ける生き方と、神から拒絶される生き方があるということを。

5月15日のみことば

「わたし(知恵)を見失う者は魂を損なう。わたしを憎む者は死を愛する者」(箴言8:36)

前節で「わたし(知恵)を見いだす者は命を見いだし」とありました。知恵は祝福に満ちた命への道なのです。反対に知恵を見失う人は命への道を見失うこと、知恵を憎み意識的にそれから離れる人は死を愛することと同じです。ある牧師が台風一過の高速道路を車で走っていたら前方に看板「この先ない」。「!?」。よくみたら「あ」と「ぶ」の文字が欠落、「この先あぶない」だったというのです。どちらにしても要注意! ところであなたの前にはどんな看板がありますか?「この先溢れる祝福」であってほしいと思います。

5月13日のみことば

「わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか」(箴言8:34)

これはストーカーの話ではありません。知恵の学校への愛の大きさ強さを語っているのです。この人は毎朝知恵の学校に行き、その扉が開くのを待っているのでしょう。そこに足を踏み入れる喜び、学ぶ喜び、頂いた知恵に従って生きる喜びを彼は実感しているのす。知恵の生徒とは何よりも聞いて行う人なのです。そこに祝福があるのです。

5月14日のみことば

「わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる」(箴言8:35)

「わたし」とは神からの知恵です。私たちが尋ね求めるべきはそれです。それを見いだし、それに従って歩む人は、喜びと力に満ちた人生を力強く歩むことができます。神はそのような人を大いなる祝福で満たすために「喜び迎えて」くださいます。私たちは知っておくべきです、神に喜び迎えて頂ける生き方と、神から拒絶される生き方があるということを。

5月12日のみことば

「諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない」(箴言8:33)

「なおざり」とは「いいかげんにしておくこと。本気でないさま。おろそか」。私たちは案外大切なものをなおざりにしていることが多いようです。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」(伝道の書12:1)。「神のことは高齢者になってから考えます」という人もいますが、神を知るのは「あなたの若い日」の課題なのです。そう言うと「わたしはもう若くない」と嘆く人がいるかもしれません。渡辺和子先生は「これまで生きてきた日を考えれば、今日は一番年寄り。でもこれから生きる日を考えれば、今日は一番若い日!」と言われました。今日は私たちが共に神の愛に思いをはせる日なのです。

5月13日のみことば

「わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか」(箴言8:34)

これはストーカーの話ではありません。知恵の学校への愛の大きさ強さを語っているのです。この人は毎朝知恵の学校に行き、その扉が開くのを待っているのでしょう。そこに足を踏み入れる喜び、学ぶ喜び、頂いた知恵に従って生きる喜びを彼は実感しているのす。知恵の生徒とは何よりも聞いて行う人なのです。そこに祝福があるのです。

TOP