3月15日のみことば

「主を畏れることは、知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1:7)

「畏れ」は「恐れ」とは異なります。「畏れ」の根底にあるのは愛と信頼です。神の言葉を真摯に受け止め、神の御業を敬虔に仰ぎ、喜んで従うことです。そこにこそ祝された人生の源泉がある、溢れる恵みはそこから出てくると知恵の教師は確信をもって告げるのです。

3月16日のみことば

わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。それらは頭に戴く優雅な冠/首にかける飾りとなる。(箴言1:8~9)

優雅な冠、首飾りになる両親の諭しと教え。あなたはどんな冠や首飾りを頂いたでしょか。私の場合は、天地の創造者である神がいますこと、愛に富んだお方であること、日々信頼して今日の務めに誠実に携わること、今苦しくてもやがて春が来るということでした。そう教えてくれた両親に今も感謝しています。

 

3月14日のみことば

「これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう」(箴言1:5)

知恵の教師は、箴言1:4で神からの知恵はこれから成長する若者に必要なものだと言いましたが、ここでは賢人・聡明な人にも必要だと言うのです。なぜなら彼は自分の知恵と力、説得力と指導力に限界があることを知っていますから。本当に賢く聡明な人は神の知恵を学び続けることを喜ぶ人なのです。

3月15日のみことば

「主を畏れることは、知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1:7)

「畏れ」は「恐れ」とは異なります。「畏れ」の根底にあるのは愛と信頼です。神の言葉を真摯に受け止め、神の御業を敬虔に仰ぎ、喜んで従うことです。そこにこそ祝された人生の源泉がある、溢れる恵みはそこから出てくると知恵の教師は確信をもって告げるのです。

3月13日のみことば

「未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。」(箴言1:4)

関西学院大学神学部で学んでいた時、ある先生がこう言われました。「将来牧師になったら知ったかぶりをしてはいけません。教会にはそれぞれの専門家がいますから、分からないことは何でも聞きなさい。きっと喜んで教えてくれます。」その通りでした。40年経った今でも分からないことは何でも尋ねることにしています。未熟さを自覚すると、知識を持った友が与えられ、おかげで慌てず、安心して、十分熟慮し、最善の結果を得ることができます。

3月14日のみことば

「これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え/聡明な人も指導力を増すであろう」(箴言1:5)

知恵の教師は、箴言1:4で神からの知恵はこれから成長する若者に必要なものだと言いましたが、ここでは賢人・聡明な人にも必要だと言うのです。なぜなら彼は自分の知恵と力、説得力と指導力に限界があることを知っていますから。本当に賢く聡明な人は神の知恵を学び続けることを喜ぶ人なのです。

3月12日のみことば

「諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため」(箴言1:3)

ある人は「不正とはすべての人間性を否定し、そこに落ち込んだ者を野獣に変える野蛮さのことである」と言っています。確かに国内外にはそのようなニュースがたくさんあります。知恵の教師の時代もそうだったのでしょう。だから彼は正義と法と正常化への洞察を与えようとするのです。人は神の戒めに一致するように行動する時、初めて本当の人間性を取り戻すことができるのです。

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