3月13日のみことば

「未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。」(箴言1:4)

関西学院大学神学部で学んでいた時、ある先生がこう言われました。「将来牧師になったら知ったかぶりをしてはいけません。教会にはそれぞれの専門家がいますから、分からないことは何でも聞きなさい。きっと喜んで教えてくれます。」その通りでした。40年経った今でも分からないことは何でも尋ねることにしています。未熟さを自覚すると、知識を持った友が与えられ、おかげで慌てず、安心して、十分熟慮し、最善の結果を得ることができます。

3月11日のみことば

「これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため」(箴言1:2)

旧約聖書の「箴言」は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモン」に由来すると考えられています。彼は優れた王でした。「知恵」とは問題解決の能力、「諭し」とは人生の苦難を訓練・矯正・指導として受け入れる能力、「分別ある言葉」とは偽りと真実を区別する能力。私たちが生きていく上でなくてはならないものです。箴言は私たちにそれを与えようとしているのです。

3月12日のみことば

「諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため」(箴言1:3)

ある人は「不正とはすべての人間性を否定し、そこに落ち込んだ者を野獣に変える野蛮さのことである」と言っています。確かに国内外にはそのようなニュースがたくさんあります。知恵の教師の時代もそうだったのでしょう。だから彼は正義と法と正常化への洞察を与えようとするのです。人は神の戒めに一致するように行動する時、初めて本当の人間性を取り戻すことができるのです。

3月10日のみことば

「神に逆らう者はつむじ風の過ぎ去るように消える。神に従う人はとこしえの礎。」(箴言10:25)

「つむじ風」は揺り動かし、運び去る破壊力のたとえです。悪を行う人は嵐に会う時、耐え続けることはできず、まるでもみ殻のように吹き飛ばされると言います。それに対して神に従う人には堅固な礎がある、それは神ご自身だと知恵の教師は言うのです。マタイ福音書7章24節以下で主イエスはご自分の言葉こそ私たちの人生の土台だと言われました。そのような土台を与えられている幸いを感謝しましょう。

3月11日のみことば

「これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため」(箴言1:2)

旧約聖書の「箴言」は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモン」に由来すると考えられています。彼は優れた王でした。「知恵」とは問題解決の能力、「諭し」とは人生の苦難を訓練・矯正・指導として受け入れる能力、「分別ある言葉」とは偽りと真実を区別する能力。私たちが生きていく上でなくてはならないものです。箴言は私たちにそれを与えようとしているのです。

3月9日のみことば

「主を畏れれば長寿を得る」(箴言10:27)

誰からも愛されず、顧みられず、邪魔者扱いにされながら長生きするのはきっとつらいと思います。わが家の愛犬レイが交通事故で死んだ時、動物病院のM先生は泣きじゃくる子どもたちに丁寧に説明してくださいました。「事故で死んだレイちゃんは可哀そうだったね。でも君たちみんなに愛されて一緒に過ごしたレイちゃんはきっと幸せだったと思うよ」。愛された者は時の長短に関係なく幸せなのです。知恵の教師は、神を愛するあなたに神は長寿を、しかも神に愛され、家族に愛され、友にも愛される長寿を恵まれる、と告げるのです。感謝です。

3月10日のみことば

「神に逆らう者はつむじ風の過ぎ去るように消える。神に従う人はとこしえの礎。」(箴言10:25)

「つむじ風」は揺り動かし、運び去る破壊力のたとえです。悪を行う人は嵐に会う時、耐え続けることはできず、まるでもみ殻のように吹き飛ばされると言います。それに対して神に従う人には堅固な礎がある、それは神ご自身だと知恵の教師は言うのです。マタイ福音書7章24節以下で主イエスはご自分の言葉こそ私たちの人生の土台だと言われました。そのような土台を与えられている幸いを感謝しましょう。

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