巻頭言「イエス、焼き魚を食べる」
福音書を読んでいて、主イエスのユーモアに出会い思わずにっこりしたくなる箇所があります。例えばマタイ17:24~27。エルサレム神殿に献げるお金はシケル銀貨と決まっていましたが、それについて弟子たちが問うた時、主イエスは次のように言われました。 湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って
福音書を読んでいて、主イエスのユーモアに出会い思わずにっこりしたくなる箇所があります。例えばマタイ17:24~27。エルサレム神殿に献げるお金はシケル銀貨と決まっていましたが、それについて弟子たちが問うた時、主イエスは次のように言われました。 湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って
主イエスの十字架という出来事は、当時の人々にとっては呪いであり、無力であり、愚かなものでした。しかし使徒パウロにとっては、神の知恵であり、救いであり、誇りだったのです。 主イエスの復活はどうでしょうか。パウロがアテネの人々にイエスの復活を告げた時、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては
十字架上で主イエスの口から洩れた言葉は七つ、その一つが「エロイ、エロ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)です。マタイ27:46では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」となっています。だから十字架の傍にいた人々は、「エロイ」「エリ」という言葉を聞いて預言者エリヤの助けを求めていると思ったのです。
讃美歌21-300番の歌詞に心を惹かれます。 十字架の上に われはあおぐ、わがため悩める 神のみ子を。 たえにも貴き 神の愛よ、はかりも知られぬ 人の罪よ。 神学者アリスター・マクグラスは、十字架はレンズのようだと言います。それは人間のどうしようもない罪を明らかにすると同時に
ヨハネ福音書を読むと、「わたしは…である」という特徴的な言葉が度々出てきます。神学者ゲルト・タイセンは『新約聖書 歴史・文学・宗教』の中で、ヨハネ福音書は「キリスト」や「神の子」のような伝統的な尊称だけではイエスの偉大さを表すことができないと考え、「わたしは…である」と言う言葉を使った。例えば「わ
人はどのようにして信仰を持つに至るのでしょうか。宇宙の神秘や自然界の美しさを通してという方もいるでしょう。音楽や文学や美術を通してという方もいるでしょう。いずれも貴い導きですが、より多くの人は次の三つの道を通して信仰に至るのではないでしょうか。第一は聖書を読むことによって、第二はキリスト教の使信を
マティアス・グリューネヴァルトは16世紀の画家です。彼の祭壇画「キリストの磔刑」は聖アントニウス修道院に置かれていました。そこには見るに堪えないほど苦しむキリストの姿が描かれており、側に立つバプテスマのヨハネがキリストを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」「あの方は栄え、わたしは衰えねばな
長年病床に臥して女性がありました。動けない彼女が目にできるものは天井板だけ、しかしある時その天井板の古い染みが十字架の形に見えたのです。その時から彼女の心に主イエスのあたたかい愛が注がれてくるような気がしたのです。 O姉のフェイスブックにはこう記されていました。「山の端に大きく枝がクロスした大
「皇帝への税金」の話はマタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されています。主イエスの言葉じりを捕えようとしたのは、ファリサイ派とヘロデ派の人々でした。両者の関係は決して良好ではありませんでしたが、主イエスを無き者にしたいという点では一致していました。「皇帝に税金を収めるのは、律法に適っているでしょうか
私たちの教会は月に一度、主の晩餐式の時、主イエス・キリストへの献身と会員相互の交わりが確かになることを願って次の「教会の約束」を唱和しています。巻頭言「教会の約束」 われら神の恵(めぐみ)により、イエス・キリストを主と仰ぎ、これに全くまかせ、また信仰をあらわす為に、バプテスマを受けて主の教会