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「聖書協会共同訳について」

日本聖書協会は2018年12月に「聖書協会共同訳」を出版予定です。今回の特徴は「礼拝にふさわしい聖書」ということです。多くの人はきっと「ようやく新共同訳に慣れてきたのに」と思うでしょう。しかし日本語聖書の翻訳の歴史を見ると、『明治元訳』(1887年)、『大正改訳』(1917年)、『口語訳』(19

「福音宣教と執事」

使徒言行録を読んで印象的なのは、主イエスを信じる人々が次々に起こされたことです。聖霊降臨後のペトロの宣教を聞いて「三千人ほどが仲間に加わった」(使徒言行録2:41)とあり、ペトロが足の不自由な人を癒したことをきっかけに入信した人は男性だけで「五千人ほどになった」(同4:4)と記されています。この

「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」

ルカ福音書3章にはバプテスマのヨハネのことが記されています。彼はイエス・キリストの先駆者であり、救いへの道備えをした人です。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の

「群衆がかわいそうだ」

マタイ福音書15:29以下を見ると、ガリラヤ湖畔の小高い丘は病む人の癒し場です。イエスは…ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登って座っておられた。大勢の群衆が…多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。またこの小高い丘は空腹の人々への給食の

「しかし、お言葉ですから」

ルカ福音書5章には、一晩労しても何も獲れなかったペトロに、主イエスがもう一度漁をするよう促されたことが記されています。ペトロは「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから…」と答え従いました。結果は大漁でした。ここには信仰生活にとって大切なことが記されていま

「同じようにしてやりたいのだ」

聖書にはしばしば不思議に思う箇所があります。その時は納得しても、しばらく経つと再び疑問が生じる、マタイ20:1~15の「ぶどう園の労働者」もその一つです。ぶどうの収穫時期、園の主人は夜明けに労働者を雇うために広場に行き、一日1デナリオンの約束で労働者を大勢雇い入れます。主人はさらに9時、12時、

「主イエスはろばの子に乗って」

エルサレムは城塞都市でした。ユダヤ全土を支配するローマ総督は軍馬にまたがり、訓練された多くの兵卒を率いてエルサレムに入城しました。ローマに抵抗することの無意味さを示すためでした。一方、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとマタイ福音書21章に記されています。それは旧約の預言「見よ、お前

「十字架上の七言を黙想する」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書によると、主イエスは十字架上で七つの言葉を語られました。福音書が四つあるからこそ私たちは十字架上の主イエスの思いをより深く知ることができるのです。1、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。2、はっきり言っておくが、あなたは今日わ

「十字架が私たちに与えるもの」

神学者アリスター・マクグラスの『十字架の謎』に次のような言葉があります。アウグスティヌスが言ったように、「もし、あなたに理解できるなら、それは神ではない」のです。アウグスティヌスの態度は、啓蒙主義の原理だった「もし理解できな  いなら、それは誤っている」と対照的でしょう。十字架は神の、より偉大な

「復活が弟子たちに与えた確信」

主イエスの復活、それは人間の理性では信じがたいことでしたが、キリストを受け入れた者には神の存在を啓示する最上のしるしとして理解されました。また私たちに対して示された主イエスの愛を、父なる神がよしとなさったことのしるしとして、さらに父なる神に信頼し続けて生きた主イエスの姿の承認でもありました。彼らは主

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