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「一同は聖霊に満たされ」

使徒言行録の著者ルカは聖霊降臨の出来事を次の言葉で記しました。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来  るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌  が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たさ

臆病の霊ではなく

テモテへの手紙は使徒パウロが愛弟子テモテに宛てて書いたとされており、テモテに対する温かい励ましに満ちています。Ⅱテモテ1:7のことばです。神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。臆病とは軍勢のような大きな力の前で自由に伸びやかに動くことができなくなることです。

旧約聖書と新約聖書

ドイツの実践神学者クリスチャン・メラーは「魂への配慮としての説教」と題した本の中で「旧約聖書を軽視し、それどころか取り去ってしまう人は、イエス・キリストをも失い、彼を一つの観念に蒸発させてしまう。旧約聖書を失うことで、イエス・キリストは彼の民から切り離されるからである」と書いています。その通りだと実

「母の愛に感謝して」

創世記では、神が美しい園を造り、アダムとエバを出会わせて家族となり、彼らの間に与えられる新しい命を祝福されました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ』」(創世記1:28)。また十戒の中で神は子どもたちに対しお命じになりました。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与

「主の業に励みなさい」

全ての福音書は主イエスの十字架上の死を記しています。しかしそこで筆を置かず、そのイエスを父なる神が復活させられたと告げているのです。復活がなければ十字架の死は愛に生き愛に死んだイエスの美しい美談で終わってしまいます。復活があるからこそ、イエスの死は意味のある死、即ち「神はおられる」という存在証明であ

「いかに幸いなことか」

詩編には「いかに幸いなことか」という言葉が実に24回も出てきます。代表的なものを挙げてみます。まず詩編1:1~2です。いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。詩編128:1にも出てきます

「十字架のイエスこそ私たちの誇り」

マルコ福音書14章以下は「受難物語」と言われ、主イエスの十字架の出来事が語られています。ですからある人はマルコ福音書のことを「長い序文をもった受難物語」と言っています。受難物語の基本的な流れはマタイとルカ両福音書とも同じです。主イエスの十字架刑が執行されたのはエルサレム、その地にいたキリスト者た

「復活なさったのだ」

主イエスはユダヤの宗教指導者カイアファ、ローマ総督ピラト、そして扇動された多くの群衆によって十字架に架けられました。人々の目には主イエスの死は神の呪い、無力、愚かなものに思えました。しかし主イエスの口から洩れた言葉は「父よ、彼らをお赦しください」であり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でし

「イエスは祈っておられた」

マルコ福音書一章三五節に次のような注目すべき言葉が記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」この言葉の前には主イエスの多忙さが記されており、音楽に例えると曲想が変わり、その後再び主イエスの多忙な宣教活動が描かれているのです。福音書記者

「主イエスと子どもと私たち」

詩編127編3節に「見よ、子らは主からいただく嗣業」とあります。旧約聖書学者浅野順一先生は『詩篇―古代へブル人の心』の中で次のように書いておられます。世俗に子は宝とよく言われるが、その宝を詩人は「嗣業」(ナハーラー)と呼  ぶ。嗣業とは神から人への賜物であり、それ故旧約の人々が生命的財産とするもの

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