8月30日のみことば

「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない」(箴言20:4)

パレスティナの農民は秋の収穫後、雨の降るのを待って畑に犂を入れ、大麦、小麦の種を蒔くそうです。怠けて畑を耕さず土をやわらかにしない者は、畑を完全に見捨てているのです。箴言13:4には「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる」ともあります。ただその一週間には神に礼拝を捧げ、神からの安息を頂く時がきちんとあるべきです。神への礼拝を除外した勤勉は、果たして豊かな祝福をもたらすでしょうか。

8月31日のみことば

「おもり石の使い分け、升の使い分け/いずれも主の憎まれること」(箴言20:10)

正しい秤は社会の正義を維持するために必要です。相手によって異なる秤が使い分けられたら社会正義は成り立ちません。しかし案外私たちはこの間違いをしでかします。自分や親しい人の失敗は大目に見て問題にしないが、自分が嫌いな人が失敗すると責任問題に発展させたり…。神はこのような不正義を見ておられます。ところで神は私たちの失敗をどうご覧になっているのでしょうか。詰問せず次回の成功を期待してくださるのでは…?

8月29日のみことば

「争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆争いを引き起こす」(箴言20:3)

箴言17:14に「いさかいの始めは水の漏り始め」とあります。この水漏れをどう止めるかが知恵と力の出しどころでしょう。同じ箴言26:17には「通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは、犬の耳をつかむようなものだ」とあります。まかり間違っても事態を一層混乱させるようなことはしたくありません。むしろ聖フランチェスコの祈りのように「争いのあるところに平和を」もたらす者でありたいと願います。きっとフランチェスコは毎日「わずかでも平和をもたらす者にしてください」と祈っていたのでしょう。真の平和の働きは祈りから始まるものです。

8月30日のみことば

「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない」(箴言20:4)

パレスティナの農民は秋の収穫後、雨の降るのを待って畑に犂を入れ、大麦、小麦の種を蒔くそうです。怠けて畑を耕さず土をやわらかにしない者は、畑を完全に見捨てているのです。箴言13:4には「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる」ともあります。ただその一週間には神に礼拝を捧げ、神からの安息を頂く時がきちんとあるべきです。神への礼拝を除外した勤勉は、果たして豊かな祝福をもたらすでしょうか。

8月29日のみことば

「争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆争いを引き起こす」(箴言20:3)

箴言17:14に「いさかいの始めは水の漏り始め」とあります。この水漏れをどう止めるかが知恵と力の出しどころでしょう。同じ箴言26:17には「通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは、犬の耳をつかむようなものだ」とあります。まかり間違っても事態を一層混乱させるようなことはしたくありません。むしろ聖フランチェスコの祈りのように「争いのあるところに平和を」もたらす者でありたいと願います。きっとフランチェスコは毎日「わずかでも平和をもたらす者にしてください」と祈っていたのでしょう。真の平和の働きは祈りから始まるものです。

8月27日のみことば

「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない」(箴言20:1)

キリスト教は禁酒禁煙の宗教ではないが、度を越した飲み方は健康のためにも信仰のためにも控えたほうがいいでしょうね。ネットにあった酒の失敗談56才男性。ひどく酔っていたが何とかタクシーで自宅まで帰ったが家の門の前で力尽きた。深夜に、家の前を通りかかった人がインターホンで「誰か倒れてますよ」と知らせたら、ウチの両親が出てきて「あ、これはウチの息子です」と言って家の中に引きずり入れようとしたが重くて玄関先で断念した。結局、翌朝までそこで放置された。ご両親も愛想が尽きたのかも。

8月26日のみことば

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)

人間の考えと神のなさり方との間には大きな違いがあります。使徒パウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリント1:25)と言っています。箴言の知恵の教師は「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)とも言っています。讃美歌463番「わが行く道いついかになるべきかはつゆしらねど 主はみこころ なしたまわん そなえたもう主のみちを ふみてゆかん ひとすじに」。ここに真の平安があります。

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