9月4日のみことば
「欺き取ったパンはうまいが/後になって口は砂利で満たされる」(箴言20:17)
「パン」とは、食物のみではなく物質的な利益や悪行による満足などを象徴しています。ある注解者はこの箴言に「罪の後味」という見出しをつけています。正当な働きによらないで得た大きな利益、最初は「うまくいった」「大儲けだ」と思うかもしれませんが、後になるとそれが不幸の始まり、災いの源ということになるのです。やはり真の幸福や満足は、額に汗して得たものによって感謝して生きることにあるようです。
9月2日のみことば
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」(箴言20:12)
これは神から与えられた目と耳とを用いて正しく理解せよとの勧めです。私たちはしばしば自分の見たいものを見、聞きたいことだけを聞きがちです。主イエス様は「聞くことがらに注意しなさい」と言われました。また見ても聞いても、それを自分の都合の良いように変えてしまいがちです。ルドルフ・ボーレンという神学者は「私たちは目と耳に聖霊による新生を必要としている」と言っています。それは、正しく見、正しく聞くすべを祈り求め、また継続的に学べということでしょう。
9月3日のみことば
「眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる。」(箴言20:13)
必要な睡眠と怠惰な睡眠があります。知恵の教師は惰眠を警告しているのです。熟睡するためにはどうすればいいでしょうか。私は、その日一日の働きを思い出し、恵みに対しては感謝を、反省すべき点に関しては悔い改めを、そして明日担うべき課題については導きを祈ってから眠りにつくようにしています。すると深い眠りが与えられ、朝は新しい力に充満して目覚め、今日一日を喜びに満ちて始めることができるようです。
9月1日のみことば
「子供も、行いが清く正しいかどうか/行動によって示す」(箴言20:11)
キリストは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ…」(マタイ7:16~20)と言われました。ヤコブの手紙2:14~18には「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか…」とあります。実質を伴う信仰生活を目指しましょう。
9月2日のみことば
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」(箴言20:12)
これは神から与えられた目と耳とを用いて正しく理解せよとの勧めです。私たちはしばしば自分の見たいものを見、聞きたいことだけを聞きがちです。主イエス様は「聞くことがらに注意しなさい」と言われました。また見ても聞いても、それを自分の都合の良いように変えてしまいがちです。ルドルフ・ボーレンという神学者は「私たちは目と耳に聖霊による新生を必要としている」と言っています。それは、正しく見、正しく聞くすべを祈り求め、また継続的に学べということでしょう。
8月31日のみことば
「おもり石の使い分け、升の使い分け/いずれも主の憎まれること」(箴言20:10)
正しい秤は社会の正義を維持するために必要です。相手によって異なる秤が使い分けられたら社会正義は成り立ちません。しかし案外私たちはこの間違いをしでかします。自分や親しい人の失敗は大目に見て問題にしないが、自分が嫌いな人が失敗すると責任問題に発展させたり…。神はこのような不正義を見ておられます。ところで神は私たちの失敗をどうご覧になっているのでしょうか。詰問せず次回の成功を期待してくださるのでは…?
9月1日のみことば
「子供も、行いが清く正しいかどうか/行動によって示す」(箴言20:11)
キリストは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ…」(マタイ7:16~20)と言われました。ヤコブの手紙2:14~18には「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか…」とあります。実質を伴う信仰生活を目指しましょう。