5月4日のみことば

「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」(箴言8:12)

知恵は何を持っているのでしょうか。熟慮と知識と慎重さです。「熟慮」を「機敏さ」と訳している人もあります。そうすると、知恵は熟慮と同時に機敏さであります。ただ徒にだらだらと考え続け、堂々巡りでいつまで立っても結論がでないというのではなく、十分に熟慮した上で大胆に一つの明確な結論を出し、それに基づいて機敏に的確な行動を始めるということです。熟慮のない行動、行動のない熟慮は有害です。

5月5日のみことば

「主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む」(箴言8:13)

「神を信じています」と言いながら、その生活ぶりは傲慢、驕り、暴言、悪の道、これでは神は悲しまれます。決して祝福されません。神を信じる者の生き方は何よりも神への愛、人への愛の中に現れるでしょう。西南学院の創立者C.K.ドージャー先生は臨終の床で「西南よ、キリストに忠実なれ」と遺言され、それが西南学院の建学の精神となりました。ご子息E.B.ドージャー―先生はそれを次のようにわかりやすく表現しました。「神と人とにまことと愛を」。それが私たちの生き方なのです。

5月3日のみことば

「聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし・・・」(箴言8:6~7)

慣れない地を旅行しようとすれば有能なガイドが必要です。高い山に登ろうとすればその山を熟知した登山ガイドが必要です。一度限りの人生ですから私たちには人生のガイドが必要です。ここで「わたし」とは箴言の知恵の教師のことでしょうが、私たちにはイエス・キリストと理解することもできますし、その方が適切かもしれません。彼は私たちに愛と公平、真実と信頼に満ちた生き方を示してくださいます。今週も彼に聞きつつ歩みましょう。

5月4日のみことば

「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」(箴言8:12)

知恵は何を持っているのでしょうか。熟慮と知識と慎重さです。「熟慮」を「機敏さ」と訳している人もあります。そうすると、知恵は熟慮と同時に機敏さであります。ただ徒にだらだらと考え続け、堂々巡りでいつまで立っても結論がでないというのではなく、十分に熟慮した上で大胆に一つの明確な結論を出し、それに基づいて機敏に的確な行動を始めるということです。熟慮のない行動、行動のない熟慮は有害です。

5月2日のみことば

「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え、愚かな者は反省することを覚えよ」(箴言8:4~5)

「わたし」とは知恵の擬人的表現です。その人が好きだからという理由で無条件に賛成したり、熟慮することもなく軽率に決断したり、間違いに気づいても謝りもせず反省もせず、なお突き進もうとする…、そういう人に出会うと無性に悲しくなります。熟慮すること、反省することは人間の品位です。品位ある生き方をするためにまず神の言葉(聖書)に耳を傾けなさいとこの箴言は促しているのです。

5月3日のみことば

「聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし・・・」(箴言8:6~7)

慣れない地を旅行しようとすれば有能なガイドが必要です。高い山に登ろうとすればその山を熟知した登山ガイドが必要です。一度限りの人生ですから私たちには人生のガイドが必要です。ここで「わたし」とは箴言の知恵の教師のことでしょうが、私たちにはイエス・キリストと理解することもできますし、その方が適切かもしれません。彼は私たちに愛と公平、真実と信頼に満ちた生き方を示してくださいます。今週も彼に聞きつつ歩みましょう。

5月1日のみことば

「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入口、城門の通路で呼ばわっている」(箴言8:1~3)

知恵・英知の役割は人々に正しい道をはっきり示すことです。私たちは一人でいる時間違った考えに陥りがちですが、大勢が集まると冷静さを失い、勢いで誤った方向に進みがちです。それゆえ知恵は私たちに繰り返し働きかけるのです。私たちの一日も聖書一句と短い祈りで始めたいものです。主イエスが教えてくださった祈りはゆっくり唱えても実は一分!この一分が今日一日に大きな結果をもたらすのです。

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