2月27日のみことば

神に逆らう者はつむじ風の過ぎるように消える。神に従う人はとこしえの礎。(箴言10:25)

「つむじ風」とは揺り動かし運び去る破壊力のたとえ。嵐に出会う時、悪を行う者はもみ殻のように吹き飛ばされてしまいます。「神に従う人はとこしえの礎」とあります。彼の礎は神ご自身ですから揺り動かされません。大地に立つ大木のようです。さらに神に信頼する彼の堅固な生き方は他者の生き方の手本や礎にもなるのです。苦しい状況にある時、私は信仰の先達や祖父母や両親の生き方を思い出します。すると大きな平安に満たされます。彼らは私にとって最良の手本であり堅固な礎なのです。

2月25日のみことば

愚か者は悪だくみを楽しみ/英知ある人は知恵を楽しむ。(箴言10:23)

深夜によかトピア通りで暴走運転している若者がいるらしく、時折パトカーがサイレンを鳴らして追跡しています。自分の命と他者の命を危険に陥れる危険な行為だと思うが、彼らにはほかに楽しみはないのでしょうか。何を楽しみにしているか、それがその人の愚かさと賢さを表しています。隣人の幸いを祈り求めるのではなく、隣人の不幸を望み悪だくみを楽しむなどは人間としては愚かさの極み。神は決してそんな人をお許しにはならない。

2月26日のみことば

神に逆らう者は危惧する事に襲われる。神に従う人の願いはかなえられる。(箴言10:24)

「神に逆らう者」とは意図的・反逆的・精力的に神から離れる方向に向かって進む人のこと。知恵の教師は彼らは「危惧する事に襲われる」と警告します。その反対は「神に従う人」。「従」という漢字は「从」+「止」+「彳」で、「从」は前の人の後にうしろの人がつきしたがうこと、「止」は足、「彳」は行くの意。私たちは神の後に従って歩む者です。その時に真の幸福が得られると知恵の教師は確信をもって語ります。「主よ、私の心の願いをかなえてください」とそっと祈ってみてください。

2月24日のみことば

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。(箴言10:22)

私たちは自分を豊かにするのは自分の労働であり、聖書を学んだり礼拝したりすることは時間のロスと考える人がままあります。本当にそうでしょうか?知恵の教師は、そうではないと言います。私もそう思います。万事は神の祝福にかかっています。自分勝手なやり方で動き回っても良い結果は得られません。ベネディクトゥス修道院のモットーは「祈り、かつ働け」です。まず神の祝福を求めて祈り、祈りに導かれつつ働き、働き終わってまた祈る、この聖なるサイクルの中に祝福があるのではないでしょうか。短くてもいい、働きの前に祈りを捧げましょう。

2月25日のみことば

愚か者は悪だくみを楽しみ/英知ある人は知恵を楽しむ。(箴言10:23)

深夜によかトピア通りで暴走運転している若者がいるらしく、時折パトカーがサイレンを鳴らして追跡しています。自分の命と他者の命を危険に陥れる危険な行為だと思うが、彼らにはほかに楽しみはないのでしょうか。何を楽しみにしているか、それがその人の愚かさと賢さを表しています。隣人の幸いを祈り求めるのではなく、隣人の不幸を望み悪だくみを楽しむなどは人間としては愚かさの極み。神は決してそんな人をお許しにはならない。

2月23日のみことば

神に従う人の道は輝き出る光/進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。神に逆らう者の道は闇に閉ざされ/何につまずいても、知ることはない。(箴言4:18~19)

「神に従う人の道」と「神に逆らう者の道」。後者は光が確実に暗闇に変わる道です。前者は進むほどに光が増す道です。30年程前聖地旅行でシナイ山に登りました。山頂で見た朝日の輝きは心が震えるほどの美しく力強いものでした。しかし朝日が輝く前の時間は特に暗く感じましたが、確実に美しい輝きに向かって時は進んでいきました。シナイ山の輝く朝日に包まれながら私とI姉は教会のために神の祝福を求めて祈ったことでした。あなたの道にも恵みの光が輝こうとしています。

2月24日のみことば

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。(箴言10:22)

私たちは自分を豊かにするのは自分の労働であり、聖書を学んだり礼拝したりすることは時間のロスと考える人がままあります。本当にそうでしょうか?知恵の教師は、そうではないと言います。私もそう思います。万事は神の祝福にかかっています。自分勝手なやり方で動き回っても良い結果は得られません。ベネディクトゥス修道院のモットーは「祈り、かつ働け」です。まず神の祝福を求めて祈り、祈りに導かれつつ働き、働き終わってまた祈る、この聖なるサイクルの中に祝福があるのではないでしょうか。短くてもいい、働きの前に祈りを捧げましょう。

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