10月7日のみことば

生涯憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ。(詩編37:26)

神の目は常に愛の働きに注がれています。そのような働きを発見すると、神はその人を祝福せずにはいられないのです。リチャード・J・フォスターは『スピリチュアリティ成長への道』の中で祝福と平安のうちに生きるために3つの点を指摘します。①私たちが持っているものはすべて神の賜物であることを認め、そのようなものとして受け取ること。②私たちが持っているものを配慮し保護するのは、私自身ではなく神ご自身であることを認めること。③神がくださった恵みを苦境の中にある他者と喜びをもって分け合うこと。そのような人には神の祝福はさらに豊かに注がれ、子孫にまで及ぶという。すばらしい約束ですね。

10月8日のみことば

悪を避け、善を行えば、とこしえに住み続けることができる。(詩編37:27)

この言葉は大切な点を指摘しています。時と場によって、悪を行ったり善を行ったりということではありません。悪は断固として避け、善のみを行うことを意思するのです。祝福はそのような生き方を選び取った時から始まるのです。

10月6日のみことば

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。(詩編37:25)

神に信じ、従い、奉仕しすることは、損をすること、貧しくなることではないかと思う人がいるかもしれません。でも決してそうではないのです。むしろ祝福されることです。この御言葉に私は心から同意します。祖父母、両親、私たちはそのように歩んできたし、子どもたちもそのように歩んでほしいと願っています。あなたも安心してこの祝福の道を歩まれますように。

10月7日のみことば

生涯憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ。(詩編37:26)

神の目は常に愛の働きに注がれています。そのような働きを発見すると、神はその人を祝福せずにはいられないのです。リチャード・J・フォスターは『スピリチュアリティ成長への道』の中で祝福と平安のうちに生きるために3つの点を指摘します。①私たちが持っているものはすべて神の賜物であることを認め、そのようなものとして受け取ること。②私たちが持っているものを配慮し保護するのは、私自身ではなく神ご自身であることを認めること。③神がくださった恵みを苦境の中にある他者と喜びをもって分け合うこと。そのような人には神の祝福はさらに豊かに注がれ、子孫にまで及ぶという。すばらしい約束ですね。

10月5日のみことば

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:24)

慰めに満ちた尊い言葉です。長い人生の中には「倒れる」経験をすることがあります。立ち上がれないのではと思えることさえあります。しかし倒れたまま放置されてはいないのです。倒れた私の手をあたたかい神の御手がしっかりととらえていてくださる、神が私たちの手を力をこめて握っておられ、やさしく見つめ、そっと引き起こしてくださるのです。あなたが今、倒れているのなら、このあたたかい御手にすがって立ち上がりましょう。

10月6日のみことば

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。(詩編37:25)

神に信じ、従い、奉仕しすることは、損をすること、貧しくなることではないかと思う人がいるかもしれません。でも決してそうではないのです。むしろ祝福されることです。この御言葉に私は心から同意します。祖父母、両親、私たちはそのように歩んできたし、子どもたちもそのように歩んでほしいと願っています。あなたも安心してこの祝福の道を歩まれますように。

10月4日のみことば

主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。(詩編37:23)

ある牧師が語った話。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とある。それで彼は実際にランプを作り、それを街灯一つない真っ暗闇の中で灯してみたというのだ。そこで彼はいくつかのことを発見した。①懐中電灯のように遠くを照らすことはできないが、案外周囲を明るく照らす。②油が入っているので速く移動することはできない。③その光の中では案外落ち着く。なるほどと思いました。主は先の先までではなく、一歩一歩を示してくださるのです。それで十分なのです。その導きの中を生きる時、私たちは落ち着きを取り戻すのです。

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