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「バプテスマと主の晩餐」

問 主の晩餐について学びましょう。礼拝の中でも特に主の晩餐が重んじられるのですね。答 教会は、その初めから主の晩餐をまもるために集まりました。一度限りのバプテスマが、主の晩餐によってくり返され、バプテスマの意味が新しく生き生きと経験され、確かめられるのです。それですから、主の晩餐は私たちの信

「イエスとニコデモ」

宗教改革者マルティン・ルターはヨハネ福音書3章の講解において「人は良い歌は二度歌う」「人は王や君侯の手紙は二度、三度と繰り返し読むべきである」「聖書の言葉は繰り返し熱心に聞かなければならない」と言っています。主イエスとニコデモの間でなされた新生問答もその一つです。ニコデモが主イエスのもとにやって

「わたしの家はすべての民の祈りの家」

主イエスが商人たちをエルサレム神殿から追い出された出来事はすべての福音書に記されています。なぜ主は宮清めをなさったのでしょうか。当時のエルサレム神殿の構造を見ますと、最も外側に異邦人の庭、その内側に女性の庭、イスラエル男性の庭、祭司の庭、最も奥に至聖所がありました。異邦人の庭と神殿造営物の間

「主の慈しみに目を注ごう」

詩編123編2節に心を捉えられます。特に繰り返し出てくる「目を注ぐ」に注目したいのです。「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎはしためが女主人の手に目を注ぐようにわたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ憐れみを待ちます。」神学者E・H・ピーターソンも『牧会者の神学』の中で、〈祈り・聖書理

「パウロの祈りを私たちも」

讃美歌作家、パスカル研究者のとして知られた由木康先生は、日本基督教団東中野教会の主任牧師として50年、引退後名誉牧師として14年働かれました。日本における讃美歌の第一人者で、『讃美歌21』には先生の作詞訳詞のものが10曲以上あります。私が最初に読んだ由木先生の本は『キリスト教の基本線』であり、2

「之に忠実ならんことを」

ルカ福音書の著者は、御子誕生の知らせを最初に受けたのはベルレヘムの羊飼いたちで、それを告げたのは天使であったと記しています。恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:10~11)

巻頭言「忍耐がもたらすもの」

 「堪忍袋の緒が切れる」、現代はこの緒が弱くなり、すぐに切れてしまうようです。そもそも堪忍袋なるものを持たないのかもしれません。だからでしょうか、忍耐を勧めるさまざまな諺が目に留まります。「忍耐強さは魂にとっては隠された財宝である」「忍耐は平安を、性急は後悔を刈り入れる」「忍耐という花は、どこの庭に

巻頭言「今日こそ主の御業の日」

ヨハネ1:29以下を読んでいて、気になる言葉があります。それは「その翌日」という言葉です。三度も出てくるのです。最初は29節、この段落はバプテスマのヨハネと主イエスが出会い、ヨハネがイエスにバプテスマを授ける箇所です。次は35節、ここにはイエスがペトロの弟アンデレともう一人に出会って弟子となさり

「幸福な老人たち」

 旧約聖書に登場する二人の老人について学びましょう。一人はアブラハムです。「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた」(創世記24:11)。若い頃のアブラハムは魅力的でしたが、老人となり神の祝福に包まれるアブラハムも捨てたものではありません。イエル

巻頭言「すべての人が救われて」

 神学者N・T・ライトの『すべての人のためのローマ書Ⅰ』冒頭の言葉が心を強く打ちます。  イエスについて初めて公に語り始めた人々は、そのメッセージがすべての人のためであることを強調  しました。(イエスを否認し)それを悔いて激しく泣き崩れたペトロは、教会を代表する指導者とし  て堂々と立

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