答:私も切にそうしたいと思います。

私がある大学の経済学部での学びを終えて関西学院大学の神学部に編入した理由の一つは、小学5年の時に頂いたキリスト教信仰を確認したかったからでした。イエス様が本当にキリストであること、私の救い主であることを神学的に確かめたかったのです。そしてそれができた時、私の心に大きな平安が訪れました。
イエス・キリストを宣べ伝えることが大きな喜びになりました。
すでにクリスチャンである方も「今日、改めて問う」ことが必要ではないでしょうか。一人でコツコツ学ぶこともいいですが、「問答する」ことがもっと大切なのです。真理は「独白」(モノローグ)の中でよりも、「問答」(ダイアローグ)の中で明らかにされていくからです。

答:そうです。キリスト教の全体をぼんやりととらえるよりも一部分でも生きたいのちにふれる方が、はるかに大切であると思います。

松木治三郎先生の著書『人間』の中に「聖書一句の人」という説教があります。アウグスティヌスにとってはローマの信徒への手紙13章13節以下、ルターにとってはローマの信徒への手紙1章17節、そしてトルストイにとってはマタイによる福音書5章21節以下の「山上の説教」・・・。その聖書一句を手がかりに聖書の豊かな真理を読み解いていったのです。まさに人体で言えば、「どの部分にも同じ血がかよって生きている」のです。講義の中でもしばしば「広く浅く」ではなく「聖書一句を深く」とおっしゃっていました。

私の聖書一句はマタイによる福音書4章4節「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」でした。主イエスが引用なさったのは旧約聖書申命記8章3節です。「パン」、つまり物質的な豊かさだけで生きることができると思っている人が多いのです。私も経済学部に学んでいる頃、心のどこかでそう思っていました。心の平安、救いといっても物がなければ人間は決して幸せになれない・・・。しかし私が乗っていた列車が幼い子どものいのちを奪った時、「人は物だけでは生きないのだ、反対に物が人の命を奪うこともあるのだ」と思わされました。ドロテー・ゼレという神学者は「人はパンだけで生きることによって死ぬ」と言っています。

聖書を開き、その一句に心を向け、そこに示されている神の愛に気づきたいと思います。そのためにこのコーナーが少しでも役立ちますように。

答:わたしは、ほかにかけがえのない私というひとりの人間である、と言うべきでしょう。

神によって創造された人間、かけがえのない存在、他の何をもってしても取り替えることが不可能な存在です。

仏教の言葉に「愛別離苦」というのがあります。愛する者と別れなければならない苦しみです。先だってスキーバスの転落事故で卒業間近の学生さんたちが亡くなりました。その顔写真を見ながら、生きておられたらどんな人生を歩んだのだろう、どんな人と出会ったのだろう・・・と思いました。何よりもご両親方の心中はいかばかりだろうと思いました。どんな言葉も、どれほどの賠償も、どれほど時間が経っても、ご両親の悲しみを癒すことはできないでしょう。「ほかにかけがえのない」子どもさんを失ったのですから。私も子を持つ親として、今はただ、悲しみ苦しみがほんの少しでも癒されますようにと祈るばかりです。

そう考えると、いじめもドメスティックバイオレンスもいけません。人格否定です。人の命を無差別に奪う戦争などもってのほかです。神が一人ひとりを大切にしておられるように、私たちもお互いを大切にしあうべきなのです。わたしたちは「かけがえのない存在」なのですから。

答:人間は一つの生き物として、しかも頭と手によってものを創り出す自由な人格(神の像)として造られました。しかし人間は、天地の間にひとり自由に存在するのみでなく、また自分の創造者である神と、他の自分とおなじ人との交わりにおいて存在しています。

ここには学ぶべきいろいろのことがあります。第1に、人間は一つの生き物であるということ。動物と同じ生き物なのです。だから他の生物に対しても謙遜でなければなりません。

第2に、知恵が与えられており、頭と手でさまざまなものを創り出すことができます。しかし人間が創り出したもののすべてが人間と他の生き物を幸福にしたがどうかはきちんと問われなければなりません。原子爆弾などは決して創り出してはならなかったし、武器として用いてはならなかったものです。人間を未来永劫に渡って不安と恐怖を与えるものでしかありません。

第3に、人間は神との交わりに生きるように創られている存在です。神を無視する時、人間は自分を神とし、隣人を搾取の対象とし、この世界を破壊へと導くことになるのでしょう。神の言葉に謙虚に耳を傾けつつ生きる時、自分自身の心に真の平安と喜びがあり、また隣人への愛が生じ、素晴らしい交わりが生じてくるのです。

答:いいえ、むしろ私たちは、自分の頭と手によって、神のように賢く偉くなろうとして、創造の根源から失われています。私たちは自由な人格としてたがいの交わりを求めあいながら、しかも孤独でしばしばたがいに誤解し争っています。いわゆるたがいの断絶を経験しているのです。あらゆる争闘も戦争もまた根本的にはここに起因すると思います。

 

毎日のニュースを見る度に心が痛みます。生涯の愛を誓いあって結婚したはずなのに相手の存在を抹殺したいほど憎み合う、親が子どもに食べものを与えず無慈悲に餓死させる、兄弟姉妹がお互いに憎み合う、教師が生徒の可能性を殺す、生徒たちが一人の仲間を死に追いやるほどいじめ抜く、民族が互いに争い合う、国と国とが戦争する、人間が自然を破壊する・・・。こんなことは神が天地を創造された当初の姿ではありません。神が万物を創造された時、「見よ、それは極めて良かった」のですから。美しかったのです。調和があったのです。それを破壊したのは、神から離反した人間の罪です。「神がおられるなら、どうしてこんなことが・・・」と言ってはいけません。責任の転嫁です。

先だってある方が夜遅く電話をしてこられました。兄弟げんかをしたのだが、その後なんとも言えない空しさ、悲しさ、寂しさ、孤独さを感じたというのです。でも彼は言いました、「明日の朝早く仲良くなりたいと思っています」と。とても嬉しい言葉でした。「そうできるようお祈りしてるからね」と言い、すぐに「神さま、彼に祝福をお与えください」と祈りました。

私たちもきっと同じです。まず神との関係を正しくしましょう。そしてそこから気づかされる順に一つずつ、少しずつ関係を改善しましょう。神と人、人と人との生き生きとした交わり、神はそれを望んでおられます。

答:はっきり言い表すことはむずかしいのですが、私たち人間の世界は何か混沌として、すべてが空しく過ぎ去っていきます。しかしそれは創造以前の「形なく、むなしく、やみが淵をおおう」混沌ではなく、私たち人間に責任があり、その根源に人間の罪責があるように思われます。

 

創世記3章にはアダムとエバの堕落の話が記されています。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように」思えたので、彼らは自分の意志で取って食べたのです。その結果は自らの弱さと愚かさを発見しただけでした。

創世記11章には有名なバベルの塔の話が記されています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)。ここには神の恵みによってではなく自分自身の知恵と力で生きようとする傲慢な意志があります。以前創世記を取り扱った映画を観ました。高い塔の上から天に向かって矢を射る猛々しい男の姿、神に挑みかかる愚かな人間の姿が印象的でした。

こういう人間の姿を神はどうご覧になっているのでしょうか。詩編2編4節には「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り」と記されています。人間のあまりの愚かさを神は失笑されるのです。なぜならそこには虚しい混乱しかないからです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ14章33節にはこう記されています。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」。私たちの心が神に向かう時、そこに真の平和、秩序が生じてくるのです。

答:私たちはすべての生物と同じくついに土に帰るでしょう。しかし私たちの子孫は、つぎつぎと生まれてくることでしょう。けれども私たち人類はいつまでも生存し続けるでしょうか。大昔、この地にはびこりその繁栄をほこった羊歯(しだ)や爬虫類(はちゅうるい)も大きくなり過ぎてついに滅亡してしまったように、人類もまた滅亡するかもしれません。いわゆる自然にではなく、むしろ人間の罪責によって必ず滅びるよりほかないように思えます。

どうして私たちは日本はこれからもずっと平和だ、世界はこれからもずっと発展すると思っているのでしょう?モリエールの『人間ぎらい』の中に出てくる言葉ですが、それは相当うぬぼれているか、あるいはかなりお目出度いかでしょう。

以前教会学校小学科の生徒たちと久留米市にある科学館に行きました。そこには巨大な恐竜の骨格標本などがあり、その足元で記念写真を撮りました。そしてこの信仰問答の言葉を思い出しました。大きくなった恐竜たちは互いに争い合い、殺し合い、そして滅んでしまったのです。その頃人間はちっぽけな存在だったのでしょうが、反対に小ささ弱さのゆえに生き延びることができたのでしょう。

しかし今人間の知恵は巨大になり、この世界の王者のようにふるまっています。人間同士もお互いに相手を支配下に置こうとやっきになっています。地球を何十回、何百回も破壊しできるほどの核兵器をもっています。原子力発電所も巨大な地震に見舞われると、恐ろしい結果をもたらします。問題解決のために武力を用いることを永久に放棄したはずのわが国も、いつでも戦争できるほど巨大な武力を持ちつつあります。こんな状態なのにどうして平和が永遠に続くと思えるのでしょう?決して大げさではなく私は滅びの予感に身が震えます。孫の時代も平和であってほしいと切に願います。だからこそ「生きる希望」を切望します。このことについては次回考えることにしましょう。

答:いいえ、決してそうではありません。私には、また「見よ、私はきょう、あなたの前にいのちと死との道、幸いと災いの道をおく」(申命記30:15、19、エレミヤ21:8)という、「静かな細い声」(列王記上19:12)がひびいてくるのです(申命記30:15~18、ヨシュア記8:34、エレミヤ21:8)。

私たちの希望の根拠は、人の言葉ではなく神の言葉にあります。神の声は「静かな細い声」として私たちの心に聞こえてきます。決してボリュームいっぱいに拡声された声としてではありません。聞くことを求めつつ聖書を開く、祈りつつ繰り返し聖書の言葉に心をむける人にのみ聞こえてくる声です。

以前こんな話を読みました。事業に行き詰っていた人が、かつて教会に行っていたことを思い出し、埃だらけになった聖書を本箱から取り出しました。彼は「神さま、今私が聖書を開きますので、必要な言葉をください」と念じつつ聖書をパッと開きました。するとそこにあったのは「ユダは・・・首をつって死んだ」という言葉でした。彼はぎょっとし、「神様、これは何かのお間違いでしょう。もう一度やります。よろしくお願いします」と言って、再び聖書をパッと開きました。すると「行って、あなたも同じようにしなさい」とあったのです。彼は聖書を読むのをあきらめました。

読み方が間違っています。都合がよすぎます。使徒言行録17章にはベレアの人々のことが書いてあります。「(彼らは)素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた」(17:11)とあります。このような読み方をする人の前に「いのちの道」「さいわいの道」が開かれてくるのです。

私は大きな課題に直面しにっちもさっちもいかないと思える時、右往左往することを止めます。神の導きを求めて静かに聖書に向かいます。黙想します。次の日もその次の日もそのような時間を持ちます。そしてある日、心の闇に光がさしてくるような気がします。一つの聖句と共に「きっと大丈夫!」という確信が沸き起こってくるのです。これは神が私に与えてくださる希望であると確信します。神の言葉、聖書こそ私の希望の源なのです。このようにして私は様々な課題を乗り越えてきました。あなたにとっても聖書は希望の書だと思います。

答:いいえ、私もやはりそこから落ちて失われているのです。この世の混沌の中に巻き込まれ、無力で虚しく、罪を犯しています。ただ私はいつも聞いて信じたい、神と共にありたいと切に願っています。「無信仰な私を助けてください」。

「はい、いつも…」と答えたいですが、「いいえ」と正直に答えています。そして「いつも聞いて信じたい」「神と共にありたい」と正直に願っています。信仰生活においてはこのような正直さこそが大切です。神はそのような心を尊ばれますから。

人に対して自分を殊更立派に見せようとするのは、他の羽根を自分の体にくっつけた愚かなカラスのようです。ありのままでいいのです。神に対して「わたしはあなたの祝福を受けるに値する人間です」と言うのは傲慢でしょう。誰よりも自分自身がそのことをよく知っています。謙遜な心で祈る者でありたいです。

「無信仰な私を助けてください」。これはマルコ9:24の言葉です。汚れた霊につかれた息子の救いを願った父親の言葉です。彼は、自分には信仰は少しはあるが、もう少し足りないと言っているのではないのです。「無信仰な私」「信仰のない私」を助けてくださいと言っているのです。人生の課題に取り組むには、少々の信仰、飾り物程度の信仰では間に合わないでしょう。本物の信仰でなければ…。それは主イエスによって与えられ、支えられ、増し加えられるものなのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)。

今日もご一緒に祈りたいですね。「信仰のない私をお助けください」。

答:やはり聖書に行くよりほかありません。自分で聖書を読みまた教会でこれを聞くのです(ヨハネ5:39)

イエスについて書いた本はたくさんあります。例えば、バーバラ・スィーリングの『イエスのミステリー』がNHK出版から翻訳出版された時、キリスト教が書き換えられるだろうというような宣伝ぶりでした。また最近、『ユダの福音書』が出版された時、その帯には「歴史の闇に封印された『禁断の書』。1700年ぶりに復元・出版 キリスト教史を揺るがす衝撃の発見。世界中で大論争を巻き起こした異端の聖書。イエスが語った秘密の教え」とありました。こういう言葉は私たちの関心をグイッと惹きつけます。しかしイエスについて知りたいと思うと、やはり私たちは聖書を開く以外に正しい道はないのです。

しかし一人で聖書をコツコツ読んでも、なかなか理解しがたく、あるいは森の中で道を見失うような経験をします。高い山に登ろうとするなら、訓練を積んだ経験豊かなガイドが必要です。聖書を読むのも同じで、やはり教会の交わりの中で聞くことが不可欠です。

しかしどの教会でも良いと言うわけではありません。折角時間と労力を使うのですから、あまり偏った教派や、異端と言われるような教派の人から手ほどきを受けるのは感心できません。正統的な教派の牧師から指導を受けることをお勧めします。

答:聖書は、旧約39巻、新約27巻、全部で66巻よりなる、古代の異民族の人々の書いたさまざまな文書集、今日までそして今も読む値打ちのある書物すなわち古典であります。

聖書は「古典」であると言います。ひょっとすると、皆さんの中には「聖書は古典以上のものだ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。確かにそのとおりで、そのことについては次回の問答で取り扱うことにしています。しかしここではひとまず「古典」ということから考えてみましょう。

古典とは何でしょう? それは「今日までそして今も読む値打ちのある書物」のことです。書店には日々新たな本が並んでいます。その宣伝文句は「これを読まなきゃあなたは時代遅れ!」と言わぬばかりです。しかし一年も経てばみんなから忘れられてしまう本も多いのではないでしょうか。それに比べると、これまでも多くの人に読まれ、読んだ人に大きな感化を与え続けてきた書物、時を超えて価値を持つ書物もあり、そういう本に親しむことはとても大切だと思います。

大岡信氏が『ことばの力』という本の中で、万葉集の歌は長い時空を超えてようやく読む者の心に届いたような重みがある、と言っておられました。聖書の言葉にもそのような重みがあります。私たちの心にドスンと響くものがあります。そういう言葉との出会いを経験したいものです。

答:いいえ、今日までこの聖書を読んで、ほんとうに分かった人は、こころを入れかえて新しく生まれ変わり、神に帰りました。すなわち聖書においてイエス・キリストに出会った人は、この世とともに失われた人間として見出され、この世の定めから自由にされ、死よりいのちへと導きだされて、神を知り、あがめ、愛しました。また自分を知り、互いのまじわりに生きようとし、事実たがいの愛に生き始めました。そこで、このような人々にとって、したがって教会において、聖書は、人間の言葉において生きて語りかける神の、霊のことばとなっているのです。こうして聖書は私たちの信仰と生活の源泉であり、また規範であります。これが、正典という意味なのです。

聖書は古典です。しかし古典に留まりません。読む人の人生を変革させる力を持っている神の言葉です。聖書は私たちの心を神に向けます。聖書は私たち自身の存在の尊さに気づかせます。聖書は隣人を共に生きるべき存在として発見させます。聖書は私たちの信仰の源泉であり、生活の規範です。聖書はあなたの心に信仰と希望と愛を形成する動力なのです。そのようなものとして聖書をお読みになることを心からお勧めします。

答:旧約は、神のイスラエル人との契約であります。そのしるしとして、イスラエル人を導く神の救いの歴史を語り、また十戒・法をつたえています。さらに預言やさまざまな文学によって人々が神のことばを聞いて、伝えています。新約は、そのすべての終りとして、またその成就として、イエス・キリストによる新しい契約を証ししています。

「約」は「契約」の意味です。辞書を見ると、①二人以上の当事者の意志表示の合致によって成立する法律行為。②約束を取り交わすこと。③ユダヤ教・キリスト教に特徴的な思想で、救いの思想に関して神と人間との間で交わされた約束。モーセを仲介者としてイスラエル民族に与えられたものを旧約、キリストの十字架上の犠牲を通じてなされたものを新約という、と説明されています。この③の意味です。

しかし旧約にしろ新約にしろ、この契約は神の一方的恵みによるものです。私たちの行いが立派だったから神は契約を結んでくださったのではありません。イスラエルの民は弱く小さく不完全であったにも関わらず神はこれを愛し、救い、祝福の約束を与えてくださったのです。現代に生きる私たちも全く同様です。ですから契約を与えられた私たちには感謝の他ないのです。

契約という時、もう一つ大切なことがあります。それは誠実であるということです。神はご自分が与えた約束に対しどこまでも誠実であられます。問題は私たちの方です。気まぐれではいけません。信仰は気まぐれから最も遠いところにあるものです。恵みの約束に対し誠実でなければなりません。バプテスマを受けてクリスチャンになった人は、生涯かけてキリストに従うのです。時が経てば経つほど恵みの豊かさが分かるようになります。「これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:33)。

答:旧約は、読む者の心におおいがかかっています。それは、ただイエス・キリストに出会う時だけ、取り除かれます(第2コリント3:14)。旧約は新しい契約を預言し、新しい契約はイエス・キリストによって成就しているからです。しかし間違ってはいけません。新約もイエス・キリストそのものではなく、その弟子たちの想起による証しであります。旧約も新約もいずれも、イエス・キリストにおける一度限りの、神と私たちの交わり・和解・救いの出来事、インマヌエル(神私たちと共に)の真理と恵みを証ししているのです。

旧約は裁きの神を語り、新約は赦しの神を語っていると言う人がいますが、間違いです。言葉の表面だけをみれば、旧約は裁きと思えるのでしょうが、深く読むとそこにも神の愛が満ちていることが分かります。旧約も新約も神の愛と赦しを語っています。そしてそれは神の独り子イエス・キリストにおいて実現するとキリスト教徒は信じているのです。

今私は水曜日の朝の集会で兄弟姉妹方とローマの信徒への手紙を少しずつ学んでいます。先日10章1~4節を学びました。「パウロ先生、よくぞこの素晴らしい書簡を書いてくださいました!初代教会の兄弟姉妹方、よくぞこの素晴らしい文書を保管してくださいました!」と心底そう思いました。パウロ先生はどれほど深い感動をもってこの書簡の一字一字を書き記していったことでしょうか。初代教会の兄弟姉妹は福音の真理を伝えているこの書簡をきっと命がけで守り伝えたことでしょう。

それに比べると、私たちの証の言葉はどうだろうかと反省させられます。神の大きな愛を証ししているこの聖書を感謝して読みたい、熱心に学びたい、そして溢れる喜びをもって伝えたいと願っています。

答:そうです。遠い昔の人々のためでした。しかしまた同時に、すべての時のすべての人のためでした。イエス・キリストは、今ここに在る私たちのうちに起こっている出来事なのです。これが一度限りという言葉の意味なのです。

C.H.スポルジョンという19世紀の英国の名説教家は『主の約束は朝ごとに』の中でこう言っています。「神の約束は、現金と引き換えになる小切手と比較することができよう。その約束は、何か良いものが授けられるという意図をもって、信じる者に与えられる。読んで楽しんだら二度と目に触れないといったものではない。小切手を扱う場合のように、私たちはそれを現実のものとして受けとめるべきである。私たちは約束を受けとめ、それをうそ偽りのないものとして個人的に受け入れる行為を通して、その約束に自分の名前を書き込むべきである。すなわち、それを信仰をもって自分のものとして「受け取る」べきだ。こうして私たちは神は真実であり、特定の約束の言葉を必ず守られると承認することになる。さらに進んで私たちは、確実な約束を手に入れているという祝福が与えられていることを信じ、そのため、その祝福をすでに領収ずみであることをあかしするため、約束の小切手に署名するのである。・・・」。

長い引用になりました。私の祖母は愛用の聖書のある言葉に、「主よ、この約束を信じます」と赤鉛筆で書き込んでいました。聖書の言葉は信じる者に対する約束なのです。主イエス・キリストを通しての救いは、過去の人々のためであり、現在の私たちのためであり、さらに将来の人々のためのものなのです。

聖書を通して主イエスの救いがあなたにもたらされるようお祈りしています。

答:それは、とうといことですが、たいへんなことです。そして知的にいくらわかったつもりでも、「聖書も神の力も知らない」人々がいます。他方今日まで、聖書一句によって、新しく生まれ変わった人々もたくさんいます。

18才の頃聖書の通読にチャレンジしました。通読がとても楽しくなって4回続けました。口語訳、文語訳、そして新改訳、そして再び口語訳。その時は心に響く箇所を求めて読みました。分からない箇所はいずれ理解できる時が来ることを期待しながら読みました。

関西学院大学神学部に学んでいる頃、松木治三郎先生の「聖書一句の人」という言葉にとても慰められ、励まされた思い出があります。聖書を広く浅くより、聖書一句を深く学ぶことの尊さを心に刻みました。もちろんその一句以外は学ばないということではありません。聖書一句が本当に分かった人は次の一句へと当然向かわされるのです。

岩波新書から大貫隆先生の『聖書の読み方』が出ていますが、そこに「聖書をどう読むか 私の提案」という章があります。とても有益ですので目次から抜粋しながらご紹介します。
提案1 キリスト教という名の電車。伝統的・規範的な読み方を相対化する。「不信心」「不信仰」のレッテルを畏れない。
提案2 目次を無視して、文書ごとによむ。文書ごとの個性の違いを尊重する。初めから調停的に読まない。
提案3 異質なものを尊重し、その「心」を読む。
提案4 当事者の労苦と経験に肉薄する。自分の生活だけでなく、書き手の生活の中でも読む。
提案5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる。

答:あります。ですから教会で聞く必要があるのです。

新約聖書のペトロの手紙Ⅱ1章20節に「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」と記されています。きっと当時もそういう人がいて、信仰の道を踏み外してしまったのでしょう。山に登るならガイドが必要です。健康を回復したくて薬を飲むなら医師や薬剤師の指導のもとに飲むべきです。いくら良い薬だからといって自分勝手に飲んだら、かえって害になるでしょう。聖書を読む場合も同様です。

使徒言行録8章26節以下に、フィリポとエチオピアの高官の出会いの話が記されています。「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねるフィリポに高官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答え、フィリポが彼のために手ほどきすることになります。

手ほどきが必要です。しかし用心してほしいのは、自宅を戸別訪問して「聖書を一緒に学びませんか」と勧誘する「エホバの証人」という団体は避けてほしいと思います。私たちの教会が特別集会のチラシを作る場合、「エホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、統一原理、新天地とは一切関係ありません」と記しています。他の正統的な多くの教会も同様に記しています。せっかく聖書を学ぶのでしたら、オーソドックスな教会での学びをお勧めします。あなたの学びに神の祝福をお祈りします。

答:はい、しばしば教会も聖書を間違って解釈してきました。それは恐ろしいことですがまた避けられないことでもありました。しかし教会は、古くから聖書の中で、もっとも大切なものとして三つの箇所をとり出して、その解釈の拠り所としてきました。

自分が絶対に正しいと思い込むことは危険です。どんな人でも間違うのです。信仰の世界でも同様です。カトリック教会には「教皇無謬説」という考え方があります。「教皇の至上権を認める立場から信仰と道徳に関して語る教皇の言葉は無謬であるとする説」です。しかしプロテスタントがそうであるように、カトリックも時に間違った解釈をしてきたのが教会の歴史です。しかし感謝なことに、そのような状況の中で繰り返し聖書に戻って問い直し、軌道修正されてきたのです。

三浦綾子さんの『遺された言葉』という本に次のような言葉が出てきます。「ほんとうに自分の行為に責任をもつことが出来る人だけが、心から『ごめんなささい』といえるのではないだろうか。『ごめんなさい』なんと美しく、謙虚で素直な言葉だろう」。個人においても、教会においても「ごめんなさい」がしなやかに口から出てくるようでありたいと思います。

ところで軌道修正のための三つの拠り所とは何でしょうか。使徒信条、主の祈り、そして十戒です。念のため申しますが、バプテストは一人ひとりが、一つ一つの教会が置かれた状況の中で信仰を告白することを大事にします。しかしそのことは使徒信条で告白されている内容を否定するということではありません。もし否定するなら私たちはキリスト教の異端となってしまうでしょう。バプテスト史の研究者の書いたものに、私たちの教会の信仰宣言は「使徒信条を下敷きにして」という言葉があり、とても納得できました。

次回この三つについて少し詳しくお話しようと思います。

答:第一に、聖書の中の聖書、その中心であるイエス・キリスト、父・子・聖霊の信仰告白、そこから発展して後の教会で作られた使徒信条。第二に、主の祈り。第三に、十戒とシェマ―。私たちがいかに存在し生きるべきか、すなわち私たちの神との関係・宗教と、私たちの人間との関係・倫理とを語っています。そしてこの三つのうちに、古くして常に新しい私たちの信仰と祈りと生活の核心が全体にわたって言い表されています。

使徒信条は、ちょうど花畑を蜜蜂が飛び回って蜜を集めるように、聖書全体の中から大切なものを要約したものだと言われています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…我は聖霊を信ず。…」
主の祈りは、キリストが弟子たちの求めに応じて教えてくださった祈りです。「天にましますわれらの父よ…」。
十戒とは私たちが幸福に生きるために神が与えてくださった十の掟です。「あなたの父と母を敬え」という掟もここにあります。シェマーとは「聞け」という意味です。申命記6:4~9などにあります。「聞けイスラエルよ、私たちの神、ヤハウェは唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、ヤハウェ・主を愛せよ」。

次回からそれらの三つをめぐって、私たちの今日の状況の中で、話し合いましょう。

答:「イエス(ヨシュア・神は救い)」は、当時のユダヤではありふれた名前です。しかし、「キリスト(メシア、油そそがれた者」は、単なる名前ではなく特別な称号であります。だからイエスとキリストとはもとは別々のものです。しかも両者が結合して、イエス・キリストというひとりの方を指しています。そこにキリスト教の特質があります。単に一つの特質ではなく決定的な特質むしろ躓きか信仰か、あれかーこれかの究極の事柄です。

「イエス・キリスト」という言葉に出会った時、「イエス」は名前で、「キリスト」は苗字と思っておられる方が案外いらっしゃいます。しかし聖書の中には「キリスト・イエス」と記されている箇所もあります。今日の信仰問答が教えているように「イエス」は固有名詞であり、「キリスト」は称号なのです。

当時、ナザレのイエスに出会った人々、彼の教えを聞いた人々、働きを目撃した人々は、彼をいろいろ言葉で理解しようとしました。もっとも多かったのは「ラビ(先生)」であり、続いて多かったのは「預言者」でしょう。しかしイエスの弟子たちは、がリラヤ湖の嵐をイエスが鎮められた時には「いったいこの方はどなたなのだろう」と言い、やがて「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白したのです。そう告白せざるを得ないほど強い印象を受けたのです。今日の教会も同様に告白しているのです。

答:イエスの自筆は一句も残っていませんし、福音書は、イエスの死後、それも過去のイエスを事実としてではなく、今生きて語り働いているかたとして伝えているイエスのことばや物語など、さまざまな資料によって、書いたものです。そしてたとえばマルコは、イエスの伝記ではなく、「イエス・キリストの福音(1:1)を形成しています。だから、キリスト神話などと言われたのですが、キリスト教以外の、当時のローマの歴史書やユダヤ教文献でわずかに言及している所を見ても、イエスの史実存在とローマ法による十字架刑は、疑う余地のない史実であります。

ルカ福音書2章を見ると、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」とあり、またイエスの十字架刑の宣告を当時のユダヤ総督ピラトが行うことが記されています。これらはイエスがまぎれもなく歴史上の人物であることを告げているものです。決して架空の人物ではないのです。

もとより福音書は単なる伝記ではありません。それはイエスを救い主と信じる人々によって書かれたものです。しかしその人物に対する関心や評価や立場を持たないような伝記があるのでしょうか。アルベルト・シュヴァイツァーに関する書物も賛否両論あるのです。否定的な立場の人が書いたものに『シュヴァイツァーを告発する』があり、それによるとシュヴァイツァーは自分を兄とし、アフリカ人を見下して弟と呼ぶ暴君だと書いています。正直ひどい本だと思いました。そもそも完全に客観的な伝記など存在しないでしょう。それぞれの立場を持っているのです。だから福音書がイエスをキリストと信じる人々によって書かれたとしても当然だと思います。しかしそれは全くの作り話ではなく、その中には核となるべき史的な出来事があるのではないでしょうか。

私はそう思っています。そしてイエスを信じた人々が書いた福音書を通して私もまたイエスを私のキリストとして信じることができるのです。イエスの言葉は今ここで生きている私に救いをもたらし、生きる喜びと力を与えてくれている書物なのです。あなたにとってもそうだと思っています。

答:そうです。このことはどんなに強調しても、し過ぎるということはありません。

イエスの十字架の死、それは初代のクリスチャンたちにとっては大きな躓きでした。ルカ福音書24章にはエルサレムからエマオというところに向かっている二人の弟子のことが記されていますが、そこには弟子たちの戸惑いがよく現れています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

十字架刑とはローマ帝国が実施した極刑です。ローマは帝国に対する反乱者に対してこれを行ったのです。それはローマに対する抵抗がいかに無意味であるかを示すためでした。十字架はローマ人にとっては無力さの象徴でした。
知恵や美を愛したギリシャ人には、十字架は愚かさの象徴でした。
ユダヤ人には十字架は神の呪いでした。
そんな十字架にかけられてイエスは死んだのです。愛を語り愛に生きたこの方がなぜ? できればイエスの十字架の話は避けて通りたいと思ったことでしょう。できるだけ早く忘れたいと思ったことでしょう。

しかしやがてこの十字架の死に込められた意味を知るに及んで、弟子たちはむしろこれを大切にし、このことを熱心に伝えるようになっていったのです。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(Ⅰコリント1:18)、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(同1:23)と述べています。彼は十字架の死にイエスの信仰と愛、そしてイエスの復活という出来事の中に神の全能の力、そしてローマ帝国に対する否、イエスの信仰と愛に対する承認を見たのです。

私は少し急ぎたようです。混乱してしまった方もあるかもしれません。これからしばらくはイエス・キリストのことについてお話しすることになりますので、ご安心ください。いずれにしろ今日の箇所では、イエスの十字架はまぎれもない史実であることをご理解ください。

答:はい、そうです。たとえばパウロなども、イエスについて、もっと知っていたかもしれませんが、イエスの誕生とその死のほかはあまり書いていません。また使徒信条でも、イエスの誕生からいきなりポンテオ・ピラトのもとにおける受難と十字架に写っています。

ここで与えられている答えは、ちょっと意外かもしれません。しかしよく考えてみると、誕生と死以上に重要な史実はないのではないでしょうか。

こんな話を読んだことがあります。ある国の王様が学者たちに国の歴史を編纂させたというのです。長年かけて完成したものは膨大な書物になりました。王様は学者たちの労をねぎらいながらも、多忙な自分のために要約版を作成してくれるよう依頼しました。再び長い時間が経ち、学者たちが王様のもとを訪ねた時には、王様は病床にありました。しかし王様はこの歴史書に関心があり、さらに要約を求めました。学者たちが最後に持参したものは、「○○王は○○年に誕生、○○年に亡くなった」「□□王は□□年に誕生、□□年に亡くなった」・・・。それを聞き終わって王様は亡くなったというのです。この話が言おうとしていることは、人生において誕生と死以上に重要な史実はないということです。

イエス・キリストの場合も同じです。しかし各福音書はイエスの生涯や出来事を伝えていますが、これはどう理解すべきでしょうか。このことについては次回お話しすることにしましょう。

答:はい、そのことはやはり、キリスト教のはじめからきわめて大切なことでありました。そしてその後も福音書から常にイエスを描いてきました。ところが近代になって、福音書からそのイエスを描くことに満足できず、私たちの歴史の現実に生きていたイエスを史的に再建しようと試みました。事実福音書の中にはいわゆる史的イエスの真正な記憶による言葉や物語もあります。しかしどれを真正とするかは、もっとも高度な文献批判的研究によるよりほかはなく、しかもそれは容易に決定できないのです。だから実にさまざまなイエスが描かれてきたわけです。しかし史的イエスの追及は、あらゆる面から、ますます大切になってきました。そして私もイエスを自分の心に描いて、これをいつも大切にしています。
しかし、それは私にとって決して一つの固定した過去のイエスではなく、いつも私と共に、私の内に、生きていてたえず新しく描き直され、今日とさらに明日の私とこの世界を導くいのちの光と力となり、唯一の希望となっています。

史的イエスを知りたいという願いはきっとみんな持っているでしょう。しかしまるで昆虫採集のように小さな箱の中に虫ピンで固定されてしまったようなイエスを求めるなら、それはきっと間違いでしょう。イエスは今も生きて私たちに日々関わってくださるお方だからです。私たちはイエスとの出会い、交わりの中で変化させられていくのです。かつてギャロット宣教師が「分かっただけの自分を、分かっただけのキリストに捧げなさい」と言われました。私たちはイエスとの交わりの中で、イエスについての理解が深まり、同時に自分自身の理解も深まり、そして彼と私との人格的な関わりは一層深まっていくのでしょう。

答:イエスは、多分紀元前4年頃、私たちと少しも変わらない一人の幼子として、ユダヤ人の一人として、誕生しました。パウロは「女より、(ユダヤの)律法の下に生まれた」(ガラテヤ4:4)と書いています。

新約聖書の中でイエスの誕生物語を記しているのはマタイ福音書とルカ福音書です。マタイにはマタイの、ルカにはルカの告げたいクリスマスメッセージがあるのですが、クリスマスページェントはこれを上手にアレンジして演じているのです。
ルカ福音書はユダヤとローマの歴史の中にイエスの誕生を位置付けています。それはこの幼子はヘロデ王やローマ皇帝アウグストゥスに匹敵する、否それを凌駕する存在であることを告げようとしているのです。ローマ皇帝の誕生や成長、そして即位は帝国全体にとって喜ばれる出来事と理解されたでしょう。しかしルカは、この幼児イエスの誕生はそれ以上の意味と価値を持っていると私たちに告げているのです。

答:いいえ。それだけでは私たちの信仰生活は、多く受け身にとどまること
になります。私たちは祈らねばなりません。祈りによって、私たちの方
から本当に神を求め、事実神を信じていることを表すのです。

信仰生活の心棒としての礼拝
礼拝を軽視する信仰生活はありえない。それは不健康な信仰生活に陥る最短の道です。「去年今年貫く棒のごときもの」高浜虚子。礼拝こそ生涯を貫いている心棒です。
説教を聞くことの大切さ
礼拝は多くの要素で成り立っていますが、基本的要素は招きの時、み言葉の時、応答の時、派遣の時。み言葉の時は主に聖書朗読と説教で成り立っています。聖書朗読は神の言葉が読まれるのですから、もっとも真剣な態度で耳を傾けるべきです。説教はそのみ言葉の説き明かしです。それを聞くことが基本的に大切です。使徒パウロはローマ10:14~17で「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言っています。

応答としての祈り
関西学院大学で神学を講じておられた松村克己先生の著書に『交わりの宗教』があります。神と人との交わり、それによって固くされる人と人との交わりです。この交わりを可能にするものは言葉です。神からの言葉、そして祈りという私たちの言葉。この祈りは私たちが「本当に神を求め、事実神を信じていることを表す」のです。松木治三郎先生も関西学院大学神学部の教授でしたが、「バプテスマを受けることができるかどうか、それはその人が心から祈ることができるかどうかにかかっている」と言われました。真の祈りは神への信頼があってはじめて可能になります。

私は毎朝神に祈るのが喜びです。「天の神様、今朝もこうしてあなたにお話しできることを感謝します。あなたが私の祈りに耳を傾けてくださっていることを心から感謝します」という言葉で始まっています。あなたも祈りをなさってみてください。心に静かな喜びと力が沸き起こってくるのをお感じになるにちがいありません。

ヴァルター・リュティ『あなたの日曜日』に記されている「森の中での主の祈り」はとても印象深いものです。長くなりますが関心のある方はお読みください。

しばらく前、親しくしていた80才ほどの鍛冶屋が亡くなりました。この人は家政婦の婚外子として育ちました。わずかばかりの固いパンをかじり、したた  かに棒でなぐられ、悪態や卑猥な話が絶えず飛び交う環境の中で大きくなりました。もしも信心深い隣の奥さんが、火中から燃える薪を取り出すように、この小さな子を母の虐待から引き出さなかったなら、彼は身も心も駄目になっていたしょう。
しかし婚外子として生まれたこの人は…奇跡的に助けられていきました。年少の頃から神の御言葉に強く魅きつけられ、すぐれた教会員となりました。不思議な神の恵みによって、この人はのちに有能な職人となり、誠実な夫となり、また多くの子供を見事に教育しました。
この人が亡くなって二、三週間後に…息子の一人で、アカデミー会員となっている人物に会いました。…その人は父親の生涯の一こまをそっと教えてくれました。子どもが小さい頃、彼は日曜日の礼拝後などにはみんなをシュヴァルツヴァルトへ連れて行ってくれました。…それは、一週間、働きづめの父親に子どもたちが存分に甘えられる時でした。父親は何でも知っていて、驚くほど博識で、創造の不思議なみわざに子どもたちの心を開かせてくれました。「しかし教わったことはこのような実用的なことだけではありません。私や妹たちがこの散歩で決して忘れられないのは、ある珍しいことなのです。何回か、あるいは全部で六回ぐらいだったかもしれません。…父はある異様なものに触発されて、モミの木の下にじっと立ち、帽子を両手に持って、『わが子たちよ、祈ろうじゃないか』と言うのでした。そして私たちはそこで一緒に主の祈りをさ  さげたのです。」
初老にさしかかったその博士は、それからさらに続けて語りました。「私は研究生活に入った後は次第に教会から離れていきました。しかしシュヴァルツヴ  ァルトのモミの木の下で祈る父の姿を今日改めて思い浮かべると、自分は生涯かけても決して父のようになれそうもありません。それが何かわからないのですが、父が生涯を通して幸いにも持ち続けられたあの本質的なものが自分には欠けているからです。父の苦しみの数か月間、またその臨終の夜をつき添いながら、私は自分の人生について、しばしば幾度も考えざるを得ませんでした。そして、そういうふうに考え続ける時に、思いはいつも常に繰り返して、あのシュヴァルツヴァルトのモミの木の下で経験した不思議な瞬間へ行き着き、そこで立ち尽くすのです。」

博士である息子が鍛冶屋の父親のもとで見た事がら、また自らが感じていた自分に欠けている事がらというのはいったい何でしょうか。暗い少年期に、明るく強くその生涯を照らした日曜日の祝福だと言ってはいけないでしょうか。かつて聞かされた御言葉の祝福にそのような力が込められていて、少年期の思い出がはるかに遠のき、そのなごりがほとんど認められなくなった時も漠然と した形で存在し続け、時としては逆らい難く「異様なものからの触発」のようにそれが作用したのではないでしょうか。神の御言葉の祝福はかくも強烈で、それゆえ、かつてシュヴァルトヴァルクのモミの木の下で六回ほど耳にした、しかも教会の礼拝から遠いところで祈られた主の祈りが、今では教会から離れている息子に何事かを考えさせているのです。そこから流れ出て世界を巡る川の流れに比べれば、泉というものは、なんと隠されていることでしょう。キリスト教会の礼拝というものは、なんと隠され,見栄えのしないものでしょう! しかし御言葉のもとにあるわずかな日曜日の時間に込められた泉の働きは、世界的な広がりを持っていて、その時間的・場所的な豊かさの点では計り知れないものがあります。世界の歴史を作り出すなんと多くの個人や働きが、その「発火点」を、静かな礼拝のひとときの中、すなわち天からの火花が貧しい者や見栄えのしない者たちの教会に天下るその場所に見出していることでしょう!日曜日、神の御言葉のもとに来るようにと教会の鐘が呼びかけます。祝福を千代にまで及ぼす神の御言葉のもとに来るようにと呼びかけます。安息日を駄目にしてはなりません。安息日には祝福があるのです。

答:祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対す る神の意志を示されることであります。ですから、特に宗教的な聖い場所で特に宗教的な事柄についてのみでなく、む しろこの世の中で個人的社会的窮乏の中から、いわゆる世俗的事がらについ て、祈るのです。そこで、この世の中にまきこまれている私たちに、その一つ一つの具体的事が らに対する神の意志が示され神と交わることができるのです。

祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対する神の意志を示されることであります。この世の中で個人的社会的窮乏の中で、いわゆる世俗的な事がらについて祈るのです。

主イエスは弟子たちに「こう祈りなさい」と言われ、所謂「主の祈り」を教えられました。

天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

ここには神に関する祈りがあると同時に、「日用の糧」「罪」「こころみ」「悪」といった、日常の生活に関する祈りもあります。
主イエスはそれらを次元の低い祈りとはされず、私たちに必要で大切な祈りとされたのです。そしてそのことについて祈ることが許されているのです。

金子勝氏の『悩みいろいろ―人生に効く物語50』(岩波新書)に、ゲーテ『ファウスト』の中の話が出てきます。悪魔のメフィスト―フェレスが「人間どもがくる日もくる日も苦しんでいるのを見ると憂鬱です。意地悪をしてやろうという気がなくなるくらいなんだから」と言いますと、。神は「人間は精を出している限りは迷うものなんだ」とお答えになるのです。

祈りは特に宗教的な聖い場所はもとよりそれ以外の場所でもなされるものです。教会堂は祈りの家と言われます。マルコ11:17「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである』」。列王記上8:29~30「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

しかしそれ以外の場所でも祈ることを許してくださるのです。今日はセンター入試の日ですが、受験生の中にはキリスト者がいるかもしれません。彼らは試験に臨んで短い祈りを捧げているかもしれません。病床にある人はそこで神に祈っているかもしれません。「病床という名の聖所」。食事の準備をする人は台所でも祈りを捧げるでしょう。食卓ももちろん祈りの場となります。感謝の祈りがあれば貧しい食物であっても、豊か卓となるのではないでしょうか。

その一つ一つの具体的事がらに対する神の意志が示され神と交わることができるのです。祈りは私たちの不安や恐れ、直面している問題を瞬時に取り除いてはくれないかもしれません。しかし祈りの中で最初に示されることは、自分が直面している課題に神があたかも自分自身の課題であるかのように共に取り組んでくださることを確認できるのです。そこには協働者を確認できた平安があります。自分一人で課題に取り組まなくてもいいのです。

祈りの中で神は私たちの不安や恐れを一時取り除いてくださるでしょう。この一時が大事では? 重い荷物を下ろすことができないのではなく、一時主イエスのもとに下ろして休息できるのです。この一時の休息の持つ力は大きい。課題を引き続き担う新たな力と勇気が生  じてきます。

山道で汗をぬぐいながらこれから先の道を眺めるような気持になるでしょう。主イエスと共に歩むこの道は必ず解決へと通じていることを確信でき、心に安心が訪れるでしょう。先が見えないことが私たちを不安にするのです。

祈りの中で、主イエスと共に生きる喜びを経験するでしょう。「こどもさんびか」にこんな歌があり、私は大好きです。「ただひとり野原を歩いている時にも、イエス様はわたしの力です城です」こんな讃美歌もあります。「主イエスと共に歩きましょうどこまでも、主イエスと共に歩きましょういつも 、うれしいときもかなしいときも、あるきましょうどこまでも、うれしいときもかなしいときも あるきましょういつも」

あなたも祈ってごらんになってはいかがでしょう? 思ってるようも大きな効果があるものです。主イエスは私たちが祈り始めるのをきっと待っておられると思います。

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